1997-11-04 第141回国会 衆議院 予算委員会 第5号
新生沖縄という言葉を使うことはあるいは失礼かもしれませんけれども、恐らく、県が全島フリートレードゾーンのような構想を正式にまとめられ、国とともにテーブルに着かれる、こうした場面は今まで我々は用意してこなかったのではないかと思いますし、こうした機会にこれが一歩でも二歩でも前進し、新しい沖縄がより発展を遂げられるように、振興策自身にも全力で取り組んでまいりたいと思います。
新生沖縄という言葉を使うことはあるいは失礼かもしれませんけれども、恐らく、県が全島フリートレードゾーンのような構想を正式にまとめられ、国とともにテーブルに着かれる、こうした場面は今まで我々は用意してこなかったのではないかと思いますし、こうした機会にこれが一歩でも二歩でも前進し、新しい沖縄がより発展を遂げられるように、振興策自身にも全力で取り組んでまいりたいと思います。
私がこのように沖縄振興に全力を挙げて取り組むと申し上げ続けておりますのは、まさに沖縄の方々が長い間背負ってこられた苦難というものに思いをいたし、二十一世紀を担う沖縄の青少年が夢と希望に燃えることができる、そのような新生沖縄というものを実現させたい、そのような思いからであることを御理解いただきたいと存じます。 なお、最後に非核三原則についてお尋ねがございました。
そしてまた、沖縄復帰直後には、沖縄県の副知事として、新生沖縄県の基礎固めに微力を尽くしてまいりました。 御承知のように、沖縄では今なお金国の七五%に及ぶ広大な米軍基地があります。私がそのときに最も苦労いたしましたのが、この広大な米軍基地の取り扱いと自衛隊の受け入れについてでございました。鈴木宗男先生には、沖縄のそのような厳しい状況に深い理解を示され、いろいろな面で御支援を賜りました。
小渡先生は、復帰後も引き続き県議会議員として御活躍され、新生沖縄県の発展に大いに貢献されたのであります。 県議会議員時代の先生は、琉球政府の要職にあった間の人脈を駆使しての豊富な情報と巧みな弁舌をもって当時の屋良革新県政を厳しく追及し、爆弾男の異名をはせ、沖縄政界の一翼を担う実力者としての地位を確固たるものにしていくのであります。
そしてなくなった人はかえりませんけれども、また心の痛みもかえらないでありましょうが、しかし新生沖縄県民として、日本の他府県一億の人々と一緒になって、新しい日本の一員として努力をしていく連帯感というものが回復されるまで、努力を続ける責務があると考えます。
要するに、復帰いたしました新生沖縄県の第一歩において財政的にはきれいさっぱりとした形で出発できるように措置をしたいと考えておりますが、いまここでそれ以上具体的にちょっとお示しする段階でないような気がいたしておりますけれども、そういう考え方でございます。
のサービス行政、許認可その他でございますから、できれば県民の利便のために一ヵ所にまとめて、総合出先機関、ただし、特殊な保安庁その他例外といたしまして、まとめたいと考えておりますけれども、これには、国のほうの役所である中央の機構をどうするか、いまおっしゃいました、仮称、かりに沖縄開発庁という、沖縄県のためのみにめんどうみる役所をつくる、つくらないかという問題とも関連をいたしていますので、私どもは、新生沖縄県
○国務大臣(山中貞則君) とらぬタヌキの皮算用の段階であまり会社の名前をあげると、ときには逆にコマーシャルということにもなりますから、いま、先ほど申しましたような決意でありますし、絶対に新生沖縄の前途に、第一歩にいささかなりときずのつくようなことの絶対にないようにいたします。