2015-03-04 第189回国会 参議院 憲法審査会 第2号
芦部教授を含めて、憲法の目的は人権の保障にあって統治機構はその手段であるという理解は司法試験のほぼ共通のものでしたし、これは、実は今年八十年を迎える天皇機関説事件のときの東大を始めとする全ての、早稲田も含めて、教科書の、高等文官試験を受ける、試験を受ける人たちのベースは天皇機関説でした。つまり、当たり前のことが書いてあった。
芦部教授を含めて、憲法の目的は人権の保障にあって統治機構はその手段であるという理解は司法試験のほぼ共通のものでしたし、これは、実は今年八十年を迎える天皇機関説事件のときの東大を始めとする全ての、早稲田も含めて、教科書の、高等文官試験を受ける、試験を受ける人たちのベースは天皇機関説でした。つまり、当たり前のことが書いてあった。
なぜならば、これはもう明治時代続いてきたキャリア官僚制度のもとになっている国家1種、いわば高等文官試験ですね。これが廃止されて、総合職試験というのができたんですよ。これが一個だけ改革の成果です。 先ほどの、試験はそうなんですけれども、残念ながら一括採用じゃなくて各省採用になっちゃったんですけれども、日の丸官僚の採用は、入り口は残念ながらできなかった。
かつての高等文官試験あるいは私どもが大学を出るときの上級職甲という時代とは全く違うわけでありまして、したがって学歴区分の試験を行い、その後、一定期間後に能力判定を客観的にやるべきだと。 ただ、官僚という言葉、ビューロクラットという言葉は私は残っていかざるを得ないだろうと。
それとともに、戦前の高等文官試験及び高等文官制度ならば別でございましょうけれども、今施行されている国家公務員試験、それから今度は国家公務員試験に統合されるようですけれども外務公務員試験も、これは資格試験ではなくて採用試験なんだということなんですね。ですから、世上よくキャリアとかそうじゃないとか、こう言われておりますけれども、そういう資格はありません。
今委員の申された制度は、私考えまするに、戦前から終戦直後まで続いておった高等文官試験行政科というのが引きずってきた現在の制度ではなかろうかというふうに思います。 問題は、その国家の試験によってその人のその時点における能力を一応判定し、そしてその人が中央省庁の重要なポストにつくという形での現在の仕組みであろうと思います。
○国務大臣(橋本龍太郎君) 私は現実に、今は呼び方は違うようですけれども、昔の高等文官試験以来の、あるいは上級職試験等々における人事のあり方というものにむしろ疑問を持ってきた一人だと思っております。 ただ、私どもが政治の世界に入りましたころ、ベテランの皆さんが本省の課長すら全局に位置を占めることのできないような時代でございました。
○三塚国務大臣 秋葉議員、官房長が言われましたとおり、留学というのは、文官試験、今は公務員上級職でありますが、合格をし、勤務をし、そして海外の研修に差し向ける、そして高い視点から我が国の行政マンとして国家に貢献をしてほしい、こういうことで行かれるわけでございますし、その後も、大使館等の駐在書記官として研修あるいは再度勉学の機会を得て行く、こういうことでありまして、公正に物事を見ていただきませんと、裁判
そして、昭和八年に大学を卒業、高等文官試験に合格後、直ちに内務省に入り、神奈川県に配属となり、地方行政について研さんを積まれた後、本省に戻り勤務されました。世界的な恐慌、五・一五事件の発生、国際連盟からの脱退など、政治的、経済的に内外ともに激動のときに、内務省にあって、時流の赴くところをじっと見詰め、みずからの進むべき道に思いをめぐらされたのであります。
君は、持ち前の勤勉さで、在学中に高等文官試験に合格し、昭和二十三年には、東京大学を優秀な成績で卒業されたのであります。 当時の東京は見渡す限り焼け野が原で、やみ市全盛の混乱と窮乏生活のるつぼにありました。
法務大臣は高等文官試験の司法、行政両方受かっておられます。法曹資格を持っておられる方です。ローヤーでもあられるわけですね。そしてまた郵政畑を歩いてこられたようですが、いわゆるアタッシェとして外交官生活の経験もおありのようです。まさに欧米の議会制民主主義というものを最もよく理解しておられる方でありますし、当選八回に及び、ずっと議会で活動してこられた議会人でもあられるわけです。
物の本によると、ここへは高等文官試験行政科十番以内の人でなければ昔は入れられなかった。今でもそうだと思うのですね。秀才の集まりの役所だと思うのです。そして、そこでは今長官が説明されたようなあやふやな用語の使い方は一切してられない。一つのテン、一つのマルでも、つけるかつけないかということで激論を飛ばしている、そういう役所だと私は伺っているわけです。
○国務大臣(林田悠紀夫君) 大変おもしろく伺っておったんですが、私のその時分は高等文官試験だったんですけれども、受けた時分のことを思い浮かべながら今伺っておった次第でございます。選択科目をそういうふうな教養科目を多くしまして、そしてその選択をして点数もほかの者と同じぐらいの点数を与える、そして教養豊かな者が通り得る、こういうことをやったらどうだろうと。
御尊父は有為の弁護士として活躍をされておりましたが、そのすぐれた資質を受け継がれた先生は、長じて東京府立第一中学校から旧制静岡高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等文官試験の外交、行政の両科に合格されました。そして、昭和十六年十二月大学を卒業するとともに、外務省に入られたのでありますが、入省後間もなく臨時現役兵として終戦まで軍務につかれました。
昭和十五年、東京帝国大学法学部に進まれた先生は、在学中に既に高等文官試験の司法、行政の両科に合格されました。昭和十八年御卒業後、間もなく兵役につかれ、海軍主計大尉として南洋諸島を転戦し、レイテ島で終戦を迎えられました。 戦後昭和二十一年、内務省に入られた後、富山県経済部農務課長として、当時の窮迫した食糧問題に取り組まれたのであります。
先生は、二高を卒業後、東京帝国大学法学部に進まれ、在学中に高等文官試験の司法、行政の両科に合格し、昭和十五年、大学を御卒業されるとともに内務省に入省されたのであります。ところが、入省わずか四カ月で兵役に服され、四年間の軍務を経て、海軍主計大尉で予備役となり、再び内務省に戻られたのであります。
○国務大臣(後藤田正晴君) この問題は、昔私どもの時代は高等文官試験、こう言っておったんですが、そういう時代も実際は給与は大変よかったんです、その当時は。それでもやはり毎年の志願者の数というのは、主としては民間の採用、つまりは景気、これが大きく作用しておったと思います。
在学中に高等文官試験行政科に合格し、昭和十六年、卒業と同時に厚生省に入省されました。しかし、在職わずか十八日にして召集を受け、その後四年有半軍務に服し、終戦のときは海軍主計少佐として復員されたのであります。 そして、昭和二十一年四月、戦後初めての衆議院議員総選挙が行われるや、先生は、同志友人に推されて立候補し、四十八名の候補者が六つの議席を競う大激戦の中で、みごと栄冠をかち取られました。
日本の公務員制度の歴史を振り返ってみますと、これは確かに国家の進展に貢献をした面は非常にあると思いますし、古くは高等文官試験、それを継いで各級、特に上級職は前の高文合格者に相当すると思いますけれども、こういういわゆるキャリアと言われる人たちが国の中枢に立って仕事をしてこられたということ、それからその官僚機構が世界でも冠たる優秀なものであると言われておりますけれども、そういう面は確かにあると思います。
先生は、大学在学中、高等文官試験に合格され、昭和四年、卒業と同時に大蔵省に入省、主として税務畑を歩まれました。戦後は池田勇人事務次官のもとで主税局長を務め、GHQとの折衝を重ねつつ税制の立て直しに尽瘁し、多くの辛酸をなめられました。
わが国の国家公務員の人事管理あるいは任用等については、従来、古くは高等文官試験の実施されていた時代から、引き続いて現在の国家公務員各級試験が行われておりますけれども、一貫して日本の国家公務員の人事行政は、任用のとき、すでにその人の一生が決定されるようなそういう方式で行われてきたと思います。
先生は、教育者であられた御尊父のすぐれた資質を受け、幼少のころより俊秀の誉れ高く、御両親の厳しさのうちにも慈愛に満ちた薫陶を受け、その英才を伸ばし、長じて県立宇都宮中学校から第二高等学校に進み、さらに東京帝国大学に学び、在学中に高等文官試験に合格、大正七年、同大学法科を首席で卒業されたのであります。 卒業後、直ちに内務省に入られ、大正十二年には、若くして内閣書記官の要職につかれました。