2019-11-20 第200回国会 衆議院 文部科学委員会 第8号
単なる文学史的な知識を問う暗記問題は出題しない一方で、漢字や慣用表現、文法等の日本語に関する知識は問う、これは、知識の活用力の基礎となるのは言語の運用能力であり、表現の方法を学ばなければ表現力は生まれず、思考力も判断力も形をなさないからである、基本的な語彙の把握と文章の理解によって読解力をはかるとともに、内容を分析し、みずからの知識を拡充する思考力をはかることを目的に作問をしている。
単なる文学史的な知識を問う暗記問題は出題しない一方で、漢字や慣用表現、文法等の日本語に関する知識は問う、これは、知識の活用力の基礎となるのは言語の運用能力であり、表現の方法を学ばなければ表現力は生まれず、思考力も判断力も形をなさないからである、基本的な語彙の把握と文章の理解によって読解力をはかるとともに、内容を分析し、みずからの知識を拡充する思考力をはかることを目的に作問をしている。
そうすると、だから、教養として知っておくべき部分、高校や大学へ行って勉強する部分の歴史もあるでしょう、美術史だとか文学史だとか。ところが、最低限知っておかなきゃいけない知識、なぜ日本と韓国は、あるいはなぜ日本と中国はいまだにこういう問題でもめるのか、ディベートすらできないですね、日本は。
そこで、多少生臭くなるかもわかりませんが、先生のこの「日本文学史序説 上」で、日本文化というのを分析されて、新しいものが古いものにつけ加わる、いわゆる建て増し文化、古いものが取れないんだという、旅館の建て増しのような構造になるんだという指摘、その結果、極端な二重構造になる。それから、土着の世界観が普遍的な外来文化を日本化するんだと、こういう御指摘。
それから、五十年代の初めでございましたか、加藤先生がお書きになった「日本文学史序説 上」。私は、これは文学史の本でしたが、これは政治思想、日本の政治文化の本としてとらえまして、大変刺激を受け、啓発を受けました。日本の政治学会が文学史で日本文化が解明されるということを非常に不思議に思ったんですが、この本に啓発された記憶がございます。
いましたような第二外国語も、徹底的にやりたい学生はそれをやるとか、あるいは日本語の作文――アメリカの大学なんかに行きますとイングリッシュコンポジションという科目がございますけれども、私は最初何のために必要かと思っていましたら、最近の日本の学生を考えますと、私は日本語の作文をやはり徹底的に教える必要があるんじゃないかということを感ずる次第ですけれども、そういった日本語の作文でありますとか、あるいは哲学史なり文学史
文学史的に見れば、藤村というものは信州とは切っても切れないような形に、だれが見てもなっている。まして長野県人はそういう一つの誇りを持っているだろうし、お国自慢として、藤村というものを自分の区域の中に入れておきたいという感情が非常に強いと思うのです。