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14件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2000-03-24 第147回国会 衆議院 厚生委員会 第5号

一九四二年の八月に、陸軍敷香特務機関はオタスの少数民族青年、少年を召集して、北緯五十度線近辺の地域で対ソ連諜報活動に従事させました。その一人、北川源太郎氏、ウィルタのゲンダーヌ氏ですが、この方について植木光教総理府総務長官は次のように述べている。「戦時中は陸軍特務機関要員として勤務をし、また戦後はソ連軍法会議においてスパイ容疑によって八年の刑に処せられた。

児玉健次

2000-03-24 第147回国会 衆議院 厚生委員会 第5号

先ほどの敷香陸軍特務機関、そこによって召集されている。そして、準軍属でいえば、戦闘参加者、特別未帰還者——抑留中負傷されたり現地で死亡された方も含む、そのようになっている。  そこで私は例示的にお聞きしたいわけですが、サハリンの少数民族方々の中で戦死、シベリア抑留中の病死等が明らかになった場合、援護法適用対象となると考えますが、どうでしょう。

児玉健次

1991-04-23 第120回国会 参議院 社会労働委員会 第9号

昔の敷香というところですが、本斗、あの付近にずっと行ってまいりました。確かにそういうことを現地に行ったときも報告されておりました。だからもう年数がたっているだけに、去年我が北海道調査団を出しておりますので、その問題は後で触れますけれども、早くやらないと墓地がもうなくなってしまっているという大変な現状を深刻に受けとめていただいて対応してもらいたいと思います。  

対馬孝且

1976-05-13 第77回国会 参議院 内閣委員会 第4号

そして第二次世界大戦に入ってまいりますと、旧敷香にあった特務情報部樺太支部——特務機関でございます。これが対ソ連情報収集を強化するため、オロッコ族といったこういった居住民青年召集令状を出し、特務機関要員として召集をした。このとき昭和十七年の八月でございます。  当時この北川源太郎氏は十八歳の青年でございました。

小笠原貞子

1976-05-13 第77回国会 参議院 内閣委員会 第4号

この中で、北川さんが現地召集をされたと、召集令状によって召集されたということでございますけれども、これに関しましては、そのときの特務機関の旧敷香陸軍特務機関長であった元陸軍少佐である扇貞雄さんという方、現在神戸にいららっしゃるわけですけれども、この方が、七月の二十七日に三十二年ぶりで神戸からわざわざ網走までお出かけになりまして、そして北川さんに対して、私があのとき責任を持って召集をしたと、大変苦労

小笠原貞子

1958-09-26 第29回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号

引揚地点としては西柵円塔路恵須取、野田、真岡、本斗、内幌、敷香、東柵円、知取、元泊、小田寒豊原大泊等東海岸西海岸はもちろん、ほとんど南樺太全土にわたって帰国いたしております。なお、今次初めて帰国いたしました地点東海岸中央部の元泊、古群湾よりおのおの一名、旧国境付近の古屯二名、気屯三名であります。

臼井莊一

1958-02-19 第28回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

だから、敷香方面にいる方は、汽車賃をかけて二度も三度も六カ月ぐらい通わなければならないのですから、結局僕が来るとき言ってやったのですが、そういうことをするよりも、豊原の方に出てきて、そういう手続をした方がいいのじゃないか、僕も日本に帰ってから極力そういう面についてあれするからと言って帰ってきたのです。

山村康弘

1958-02-19 第28回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

敷香にいたときに、こういうことがある。ある一人の日本人の女が朝鮮人と別れて僕たちの合宿に来たことがある。その日一人の日本の女性がたずねてきて、現在は朝鮮人の世の中だ、日本人はそうはいかぬと、せっかく日本人適当者があるにかかわらず、そういう方面に引っぱっていく。そういう例が他にあるのです。     〔中山(マ)委員長代理退席、委員長着席〕

山村康弘

1958-02-19 第28回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号

敷香にはたくさんおります。敷香にはまず千里昭一、これは実家は北海道の留萌市元町にあるのです。この人は手紙の行き来でわかっているのです。それにひとり者で残っているというのは寺島新一という人、この人は秋田県の人です。この人は手紙のやりとりはわからないです。それに円子賢治、この人は終戦当時現地で除隊された者かもしれないですけれども、軍隊から監獄に入って、そうして現在敷香ロシヤ人一緒になっておる。

山村康弘

1958-02-13 第28回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号

敷香、内淵落合、川上、大谷、豊原真岡、清水、逢坂、留多加、恵須坂オダサム等の各地点に残留していた人たちで、特に今回初めての引き揚げ地点としては、シベリア敷香、真岡オダサム等があります。今回の引き揚げ地点で注目されるのは、第一、第二次樺太地区引き揚げ西海岸に片寄り、第三次引き揚げの八割が東海岸であったのに比べて、東海岸西海岸の両方からほぼ五割ずつ帰っておるということでございます。

山口シヅエ

1957-08-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会海外同胞引揚に関する小委員会 第1号

敷香、豊原大泊真岡落合、この方面の人が帰ってきておらないということは、どういう理由から帰ってきておらないか、いろいろ調べてみましたが、第一番に関係していることは、いわゆる豊原事件というものが関係しているのじゃないかと私ははっきり思います。  豊原事件の大体の説明を申し上げますと、これは私たち初め警察当局から言われたのは、日本人だけ帰す、去年の十二月にそう言われたのです。

吉田實

1957-08-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会海外同胞引揚に関する小委員会 第1号

今後は少くとも豊原敷香方面の残った連中にお願いいたしまして、私らは出発したわけであります。  それで、二十三日に知取を出発したのですが、大へん警察も親切にやってくれまして、乗車するときにも警察署長みずから乗降口に立って、全部私らを優先的に乗せてくれた。そして署員をつけてくれまして、何かと便宜をはかっていただきました。私の考えでは、まだ豊原敷香方面には相当残っておるわけなんです。

橋本正雄

1957-08-12 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会海外同胞引揚に関する小委員会 第1号

敷香町内では自分の知っている範囲で約三十名くらいだと思っております。豊原地区は六十名くらいと思っております。  生活程度は、ただいまも個人的にはちょっと申し上げましたが、一般的には大体千ルーブル内外の収入によって、おもに労働をやっておるようです。労働も建築の方の仕事をやっておるようです。

橋本正雄

1957-08-10 第26回国会 参議院 社会労働委員会 閉会後第4号

樺太からの引揚者を見ますと、ほとんどの者が西海岸のへんぴな地方から帰ってきているようでありまして、残留邦人の比較的多い豊原敷香、真岡等からは全然引揚者がないのであります。  引揚者国籍別に見ますと、日本人三十一世帯、八十五人、朝鮮人三十四世帯、百三十四人で、昭和二十八年の引き揚げ再開から前回までソ連より帰った朝鮮人は二十三人であるのに比して、今回の大量引き揚げは非常に注目すべきであります。

藤田藤太郎

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

参考人福田雍喜君) ほかの方にいた人はわかりませんが、自分樺太敷香、豊原間のそこの地区にいたのでありますが、結婚の問題ですが、結婚は向うで国際結婚をして、朝鮮人とかロシヤ人結婚した日本人女たちが、日本人も少くなってきますと、彼らは虐待的に出てきて、日本人の女もそれに耐えかねて、刑を終って出てきた日本人の方に引かれて今度は結婚するような状態です。

福田雍喜

1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号

樺太で五年間の服役を終って、五十三年の一月三十日に刑を終り、南樺太敷香の町に帰住を許可されて、そこに行って六月までの間、ソ連国営食糧営団の小麦をかついだり、グルシク——仲仕みたいなことをやっていました。その後自分はある人の世話で、歯科技工士の見習いとして約一年と一カ月間、敷香の町で働いておりました。

福田雍喜

1950-03-07 第7回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第10号

二十一年八月二十一日、樺太敷香町に居住しておつたものでございます。もともと漁業に従事しておりましたが、入ソ以来はしけをやれという命令を受けたのであります。漁師がはしけをやることはとうていできない。そうではない、お前は発動機船を三そう持つておるから、はしけをしろという命令を受けたのであります。

中村彌之助

1949-12-24 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号

毎日新聞豊原通信部長太田原良里、同じく毎日新聞通信部員磯崎讓北海道新聞樺太支社編輯部長長谷光正北海道新聞樺太支社長工藤新造北海道敷香支局長米山麓北海道新聞写真班員木本、名前は不詳です。北海道新聞豊原樺太支社員佐藤正雄雑誌北方日本社記者傳法谷英丸、この十名が一九四六年の十二月末にそれぞれの家から検挙されております。

木村慶一

1949-12-24 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号

それからもう一人、東海岸の方落合、知取、敷香管内をやはり同じ要務を持つて旅をした日本人が、やはり新聞社の方から命令されまして出掛けた者があります。この人が帰つて来ての話によると、大体点々と散在している者が多い。東の方の纒つているところは少いが、そういう者を大体合計すると、推算約二千名くらいはいるという話で、先に申上げました或る中佐の六千名余りという数字と金体合致するなと私は考えました。  

木村慶一

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