2021-04-23 第204回国会 衆議院 外務委員会 第10号
実は、私の祖父も南樺太の敷香町で終戦まで過ごし、その後、シベリアへ抑留されました。先ほど質問した沖縄もさきの大戦で多くの犠牲者を出しましたが、実は樺太でも多くの犠牲者が出ており、ただし、樺太がたどった歴史というのは余り知られることがなく、時代とともに風化してきております。
実は、私の祖父も南樺太の敷香町で終戦まで過ごし、その後、シベリアへ抑留されました。先ほど質問した沖縄もさきの大戦で多くの犠牲者を出しましたが、実は樺太でも多くの犠牲者が出ており、ただし、樺太がたどった歴史というのは余り知られることがなく、時代とともに風化してきております。
一九四二年の八月に、陸軍敷香特務機関はオタスの少数民族の青年、少年を召集して、北緯五十度線近辺の地域で対ソ連諜報活動に従事させました。その一人、北川源太郎氏、ウィルタのゲンダーヌ氏ですが、この方について植木光教総理府総務長官は次のように述べている。「戦時中は陸軍の特務機関要員として勤務をし、また戦後はソ連の軍法会議においてスパイ容疑によって八年の刑に処せられた。
先ほどの敷香の陸軍特務機関、そこによって召集されている。そして、準軍属でいえば、戦闘参加者、特別未帰還者——抑留中負傷されたり現地で死亡された方も含む、そのようになっている。 そこで私は例示的にお聞きしたいわけですが、サハリンの少数民族の方々の中で戦死、シベリア抑留中の病死等が明らかになった場合、援護法の適用対象となると考えますが、どうでしょう。
昔の敷香というところですが、本斗、あの付近にずっと行ってまいりました。確かにそういうことを現地に行ったときも報告されておりました。だからもう年数がたっているだけに、去年我が北海道は調査団を出しておりますので、その問題は後で触れますけれども、早くやらないと墓地がもうなくなってしまっているという大変な現状を深刻に受けとめていただいて対応してもらいたいと思います。
そして第二次世界大戦に入ってまいりますと、旧敷香にあった特務情報部樺太支部——特務機関でございます。これが対ソ連情報収集を強化するため、オロッコ族といったこういった居住民の青年に召集令状を出し、特務機関要員として召集をした。このとき昭和十七年の八月でございます。 当時この北川源太郎氏は十八歳の青年でございました。
この中で、北川さんが現地で召集をされたと、召集令状によって召集されたということでございますけれども、これに関しましては、そのときの特務機関の旧敷香陸軍特務機関長であった元陸軍少佐である扇貞雄さんという方、現在神戸にいららっしゃるわけですけれども、この方が、七月の二十七日に三十二年ぶりで神戸からわざわざ網走までお出かけになりまして、そして北川さんに対して、私があのとき責任を持って召集をしたと、大変苦労
引揚地点としては西柵円、塔路、恵須取、野田、真岡、本斗、内幌、敷香、東柵円、知取、元泊、小田寒、豊原、大泊等、東海岸、西海岸はもちろん、ほとんど南樺太全土にわたって帰国いたしております。なお、今次初めて帰国いたしました地点は東海岸中央部の元泊、古群湾よりおのおの一名、旧国境付近の古屯二名、気屯三名であります。
だから、敷香方面にいる方は、汽車賃をかけて二度も三度も六カ月ぐらい通わなければならないのですから、結局僕が来るとき言ってやったのですが、そういうことをするよりも、豊原の方に出てきて、そういう手続をした方がいいのじゃないか、僕も日本に帰ってから極力そういう面についてあれするからと言って帰ってきたのです。
敷香にいたときに、こういうことがある。ある一人の日本人の女が朝鮮人と別れて僕たちの合宿に来たことがある。その日一人の日本の女性がたずねてきて、現在は朝鮮人の世の中だ、日本人はそうはいかぬと、せっかく日本人の適当者があるにかかわらず、そういう方面に引っぱっていく。そういう例が他にあるのです。 〔中山(マ)委員長代理退席、委員長着席〕
敷香にはたくさんおります。敷香にはまず千里昭一、これは実家は北海道の留萌市元町にあるのです。この人は手紙の行き来でわかっているのです。それにひとり者で残っているというのは寺島新一という人、この人は秋田県の人です。この人は手紙のやりとりはわからないです。それに円子賢治、この人は終戦当時現地で除隊された者かもしれないですけれども、軍隊から監獄に入って、そうして現在敷香でロシヤ人と一緒になっておる。
敷香、内淵、落合、川上、大谷、豊原、真岡、清水、逢坂、留多加、恵須坂、オダサム等の各地点に残留していた人たちで、特に今回初めての引き揚げ地点としては、シベリア、敷香、真岡、オダサム等があります。今回の引き揚げ地点で注目されるのは、第一、第二次樺太地区引き揚げが西海岸に片寄り、第三次引き揚げの八割が東海岸であったのに比べて、東海岸、西海岸の両方からほぼ五割ずつ帰っておるということでございます。
敷香、豊原、大泊、真岡、落合、この方面の人が帰ってきておらないということは、どういう理由から帰ってきておらないか、いろいろ調べてみましたが、第一番に関係していることは、いわゆる豊原事件というものが関係しているのじゃないかと私ははっきり思います。 豊原事件の大体の説明を申し上げますと、これは私たち初め警察当局から言われたのは、日本人だけ帰す、去年の十二月にそう言われたのです。
今後は少くとも豊原、敷香方面の残った連中にお願いいたしまして、私らは出発したわけであります。 それで、二十三日に知取を出発したのですが、大へん警察も親切にやってくれまして、乗車するときにも警察署長みずから乗降口に立って、全部私らを優先的に乗せてくれた。そして署員をつけてくれまして、何かと便宜をはかっていただきました。私の考えでは、まだ豊原、敷香方面には相当残っておるわけなんです。
敷香町内では自分の知っている範囲で約三十名くらいだと思っております。豊原地区は六十名くらいと思っております。 生活程度は、ただいまも個人的にはちょっと申し上げましたが、一般的には大体千ルーブル内外の収入によって、おもに労働をやっておるようです。労働も建築の方の仕事をやっておるようです。
樺太からの引揚者を見ますと、ほとんどの者が西海岸のへんぴな地方から帰ってきているようでありまして、残留邦人の比較的多い豊原、敷香、真岡等からは全然引揚者がないのであります。 引揚者を国籍別に見ますと、日本人三十一世帯、八十五人、朝鮮人三十四世帯、百三十四人で、昭和二十八年の引き揚げ再開から前回までソ連より帰った朝鮮人は二十三人であるのに比して、今回の大量引き揚げは非常に注目すべきであります。
○参考人(福田雍喜君) ほかの方にいた人はわかりませんが、自分は樺太の敷香、豊原間のそこの地区にいたのでありますが、結婚の問題ですが、結婚は向うで国際結婚をして、朝鮮人とかロシヤ人と結婚した日本人の女たちが、日本人も少くなってきますと、彼らは虐待的に出てきて、日本人の女もそれに耐えかねて、刑を終って出てきた日本人の方に引かれて今度は結婚するような状態です。
樺太で五年間の服役を終って、五十三年の一月三十日に刑を終り、南樺太の敷香の町に帰住を許可されて、そこに行って六月までの間、ソ連の国営食糧営団の小麦をかついだり、グルシク——仲仕みたいなことをやっていました。その後自分はある人の世話で、歯科技工士の見習いとして約一年と一カ月間、敷香の町で働いておりました。
○参考人(福田雍喜君) 現在自分のいた敷香管内では、やはり二十人近くの日本人がおりましたが、去年の六月に敷香から出たのですが、そのときでは、ロシヤ人と一緒になっている方々のほうが日本人よりも多いです。
○戸田政府委員 東京法務局の人権擁護局に、本人の板垣幸三からの申告によりますと、昭和五年三月十一日樺太敷香郡恵須坂町に生れて、父は鉱山で働いておつたが、自分の七歳のときに事故によつて死亡した。
二十一年八月二十一日、樺太敷香町に居住しておつたものでございます。もともと漁業に従事しておりましたが、入ソ以来はしけをやれという命令を受けたのであります。漁師がはしけをやることはとうていできない。そうではない、お前は発動機船を三そう持つておるから、はしけをしろという命令を受けたのであります。
毎日新聞豊原通信部長太田原良里、同じく毎日新聞通信部員磯崎讓、北海道新聞樺太支社編輯部長長谷光正、北海道新聞樺太支社長工藤新造、北海道敷香支局長米山麓、北海道新聞写真班員木本、名前は不詳です。北海道新聞豊原樺太支社員佐藤正雄、雑誌北方日本社記者傳法谷英丸、この十名が一九四六年の十二月末にそれぞれの家から検挙されております。
それからもう一人、東海岸の方落合、知取、敷香管内をやはり同じ要務を持つて旅をした日本人が、やはり新聞社の方から命令されまして出掛けた者があります。この人が帰つて来ての話によると、大体点々と散在している者が多い。東の方の纒つているところは少いが、そういう者を大体合計すると、推算約二千名くらいはいるという話で、先に申上げました或る中佐の六千名余りという数字と金体合致するなと私は考えました。