2021-05-12 第204回国会 参議院 国際経済・外交に関する調査会 第6号
二〇一九年からは、教育学的にもっと詰めていきましょうということで、教育学研究科の附属の海洋センターとして、センター長が教育学の教育哲学の田中智志、副センター長が理学から私という体制で研究活動を、活動を進めております。アライアンスもこのセンターも、いずれも日本財団の助成によって設立、運営されています。 スタッフは、私と、それから田中センター長、それから、その他教育学系の兼任教員、いずれも兼任です。
二〇一九年からは、教育学的にもっと詰めていきましょうということで、教育学研究科の附属の海洋センターとして、センター長が教育学の教育哲学の田中智志、副センター長が理学から私という体制で研究活動を、活動を進めております。アライアンスもこのセンターも、いずれも日本財団の助成によって設立、運営されています。 スタッフは、私と、それから田中センター長、それから、その他教育学系の兼任教員、いずれも兼任です。
例えば、私は大学で教育学を専攻しておりましたので、教育哲学であるとか教育史であるとか教育心理学であるとか、教育とは何ぞや、子供とは何ぞや、人間とは何ぞやということをしっかり学ぶ機会を与えられました。 しかし、今現場に出ている先生たちの多くは、教育学部を出た人間ではなく、また教育学を専攻した人間ではなく、例えば経済学部であったり法学部であったり工学部、理学部を出ている、そういう先生が多くいます。
今回の施政方針演説でも、幼保一体化や小学校一年生の一学級三十五人以下、高校授業料の実質無償化の実施について触れただけで、こうした政策のバックボーンとなる教育哲学や、どのような人材を育てるのかという理念が全く述べられていません。教育こそ我が国の明るい未来の創造につながる投資であり、教育を軽視する国家に未来はないと言えます。
イギリスの教育哲学者のアーサー・ウィリアム・ワードという方が、凡庸な教師はただしゃべる、少しましな教師は理解させようとする、優れた教師は自ら実践する、最高の教師は子供の心に火を付けるというこの言葉を残しているわけですけれども、私は、学校教育において児童生徒の限りない可能性、これを引き出していくというのは、私はひとえに、いろいろな要素はありますけれども、教員の、先生の情熱、それから使命感、資質、そういうものにある
ただ、片方で、もうお隣も先生が今日も座っていただいておりますけれども、私が好きな言葉で、これ先生方皆さん好きなように、アーサー・ワードというイギリスの教育哲学者が言った言葉でありますが、凡庸な教師はただしゃべる、良い教師は説明をする、優れた教師は自らやってみせる、そして偉大な教師は子供の心に火をつけると、そして偉大な教師は子供の心に火をつけるという言葉がございまして、非常にいい言葉であるし、私自身も
その緊張している一つの理由は、私は、法学部を卒業して法律と政治学をやりまして、その後、教育に変わって、そして専門としては、教育哲学、教育学、あるいは子供、青年の発達の問題、そして教育法の問題、国際比較教育学というような領域の研究を長年続けてきた者であります。同時に、日本教育学会の会長を二期務め、日本教育法学会の会長も二期務めてまいりました。
教育基本法がなぜに教育の目的というような純教育哲学的事項に触れなければならなかったのかといえば、従来、我が国の教育法令が教育の目的を指示しており、そうしてそれが新憲法の精神に反しているということが多かったので、やむを得ない手段であったと。
いわゆる教育基本法の根本をなす、根底をなすところの教育哲学ないしは形而上的な強い脈々とした要求というものが、本法を通覧いたしまして缺けておる憾みがするのであります。 こういうふうに質疑の中で申し述べております。 これに対して高橋文部大臣は、また明快に答えております。
私は、貧しさ、貧しいということを前提とした教育から、生まれながらにして物質的に恵まれている、豊かである、そうなった場合に、これからの子供の教育はどうあるべきかという教育哲学や教育観を根本から問われているのが、今日のニート、フリーター、引きこもり、また、思いもかけない殺人事件、こういうところにつながっているのではないか、このように思っております。
なるのならば同じように教育心理だとか教育原理だとか教育哲学だとか、そういうものもきちんと勉強して、そうしたら同じように校長先生になってください。こんな特別免許状だけで、ちょっと器用だからといって担任してもらったり校長してもらったら私は困るんですよ。 そういうだから特別免許状を持った人の扱いはどうするんですか。
そうすると、教育心理とか教育原理とか、あるいは教育哲学、少なくとも学校の現場の教員になった者は、ほとんどは少なくともペスタロッチの、エミールぐらい読んでいると思うんですよ。ところが、それじゃ世の中の人は、それは教養で読む人いますよ。しかし、自分が教職として子供を教えなきゃいけない立場からそういうものを読むかと。教育哲学勉強しますかと。哲学なきところに教育ないんですよ、本当から言えば。
特に、学級編制の標準を見直すことなく、非常勤講師を教職員の定数を取り崩して活用するという政府案の発想は、まさに教職員を安上がりにふやそうとするものであり、教育哲学の貧困を指摘せざるを得ません。まずは、必要な教職員を配置することが先決であります。その上で、弾力的な配置を行うのであるならば、参法にあるように定数の枠外で多様な人材を活用すべきであります。 教育は未来への先行投資であります。
特に、学級標準を見直すことなく、非常勤講師を教職員定数を取り崩して活用するという政府案の発想は、まさに教職員を安上がりにふやそうとするものであり、教育哲学の貧困を指摘せざるを得ません。非常勤講師を用いるのであれば、三党共同案にあるように、定数の枠外で多様な人材を活用すべきであります。 教育は、未来への先行投資であります。現在を未来へつなぐ営みであり、未来への希望と期待の具体化であります。
これはイギリスの教育哲学者のアーサー・ウィリアム・ワードという人が言った名言でございますが、凡庸な教師はただしゃべるだけである、ちょっとましな教師は理解させようと努める、すぐれた教師はみずからやってみせる、最高の教師は子供たちの心に火をつけるというのがあるんですね。
私は、東京大学にいたときには教育哲学、教育思想を講じておりました。現在は中央大学の文学部と法学部で主として国際教育論と教育法を教えております。そういう専門の立場から、そして国民の一人としてこの問題に対する意見を申し述べたいと思います。
教育でございますけれども、上寺先生の教育哲学、長い間の教育の御経験の上に聞かせていただきまして、ありがとうございました。
私ども野党として、今回新しい大臣が就任されて、その大臣の政治家としての大局的な教育哲学、日本の教育はいかにあるべきか、教育とはこうあるべきだという大局的な教育哲学をまず、少し長くなっても結構ですから、お聞かせをいただければなと思います。
だから私は、多様化という問題についてももっと深く深く教育哲学的に考えた対応をしていただかないと、この程度の一つの格差でもこんないびつな現象が生まれてくるのでありますから、その点もひとつ理解をしておいてほしいと思います。
戦後の教育哲学を変更するんじゃないかというような反対でございました。その後、昭和三十四、五年ごろだったと思いますが、国立大学の教官研究費の倍増運動なんかも大いにハッスルして走り回った等々の思い出を持っております。
そういう中で中島文部大臣をお迎えいたしまして、大変前向きに教育行政に携わっておられるということで、私は大変心強く思っておるわけでございますが、御経歴を拝見させていただきますと大変多彩な御経歴をお持ちでいらっしゃいまして、私は大変すばらしい大臣をいただいてうれしいなという感じでありますが、ここで大臣の教育哲学といいますか、教育に関しましてどのようなお考え、また、御自身がお子さんをお育てになられる、そういうことに
これは実は大学紛争の際に、私、医学部長として全共闘だとか民青だとかと言われる人たちの矢面に立って論争しましたときに、私は諸君は個の確立がない、全体主義で動いちゃいかぬ、個の確立が必要だということを私は自分の教育哲学の中でお話をしてきたんです。その個の確立が教授会にはあるのか。やっぱり全体主義的な意味で、赤信号みんなで渡れば恐くないという考え方というのが私は個の確立がないんだと思うんです。