2009-02-04 第171回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第2号
一方、家族は、その父、主に父が持ち帰ってくるような賃金を母が、まあ教育ママと時には呼ばれながらも、その賃金と意欲を、大変強い母親としての教育意欲を次世代である子供の教育にどんどんと注ぎ込むことによってその教育を成り立たせるというような、後ろから支えるような役割を担ってきたわけです。 この循環は大変一見効率的に見えるわけです。
一方、家族は、その父、主に父が持ち帰ってくるような賃金を母が、まあ教育ママと時には呼ばれながらも、その賃金と意欲を、大変強い母親としての教育意欲を次世代である子供の教育にどんどんと注ぎ込むことによってその教育を成り立たせるというような、後ろから支えるような役割を担ってきたわけです。 この循環は大変一見効率的に見えるわけです。
ただ、それもそんなに長くは続きませんで、七〇年代に教育ママという言葉が出ました。子育てが今度はお仕事になってしまう。農業、漁業から解放された反面、子育てがお仕事になってしまって、立派に我が子を育てて当たり前というような、そういうプレッシャーの下で、夫は企業戦士になっていく。
それで、何かいい大学に行かないといいところに就職できないよとか教育ママが言う人が多いのかもしれないけれども、それならそれを超えて、人間として、やっぱり地球のお医者さんになれるんだと、日本人なら。
だから、書かぬでもいいことを書いているんだけれども、しかし、安易に出してはいけません、財政秩序は守る、節度は持ってください、そういうことを大変教育ママ的発想で書いているので、そこに大変な意味はないと私は思います。安易なことはやめてくれ、これはもうどんなところにも言っていますから。
主役は行政、端的に言えば行政各部、各所であり、行政各部は言わば教育ママのように国民の面倒を見、国民は教育ママに頼ると、比喩的に言えばそういうことであります。そして、司法は全くの脇役であり、いわゆる法曹関係者もその小さな殻に閉じこもってしまったのではないかというように思うわけであります。 裁判所が三権の一翼を担う存在であることを端的に示すものは、行政裁判権と違憲立法審査権であろうかと思います。
事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換ということが言われるのも、余りにも今まで行政が主導的に、教育ママのようにと言いましたけれども、そういうことからそろそろ脱却して、もっと個人が自律的に自由に生きれる、そういう社会を作ろうと。
これは、断熱効果だけではなくて、省エネルギーという問題あるいはシックハウス対策、そういう問題から、こういうことは国土交通省のことかもしれませんけれども、十分勉強していただいて、何もこの外断熱のことだけではありません、環境省が積極的に進んで提案をしていくような、そういう教育ママ、括弧でやってほしいと思いますが、いかがでしょうか。
私は、前回、川口大臣が御就任をされたときの質問で、公共事業と環境アセスについてもっと積極的に環境省、当時は環境庁でしたけれども、物を言って前に進めるべきだ、そういうお話をしましたら、後で否定はされましたけれども、教育ママという言葉を使われて、教育ママという言葉は好きじゃなかったと後で言われましたが、私は教育ママみたいなことはやりたくないんだ、地球全体の人たちが環境問題に意識を持ってそれぞれが行動していくということが
ただ、私は、先ほど申し上げました、環境が日本人全体、あるいは世界の人全部について考えられることが必要で、それから全員が、私も国民の一人としてはそういうことですけれども、行動することが大事だということに戻りまして考えますと、環境庁が教育ママのように前に出ていって、これはこうですよというふうに申し上げるやり方というのが必ずしもいいかどうか。
○佐藤(謙)委員 教育ママという表現を使われました。私が申し上げているのは、誤解があったら言い直さなければいけないんですが、すべての公共事業に口を出していけということを言っているんじゃないんですね。 今、日本に二千五百のダムがあります。さらに、三百のダムが今つくられ、計画され、調査されている。
○川口国務大臣 まず最初に、私、ちょっと教育ママという言葉を取り消したいと思っておりまして、私は教育ママという言葉は本来嫌いな言葉でございまして、私も母親の一人でございますので、何となくそういう意味では、ある意識を持った言葉であると日ごろ思っておりましたので、とりあえず使ってしまいましたけれども、余り使うべき言葉ではなかったというふうに思っております。
と同時に、少人数になると、先ほどお答えいただかなかったですけれども、友人が固定化するとか、逆に親とか子の過干渉という、私も余り干渉されるのは好きじゃない子供でしたから、干渉が強過ぎるような問題が逆に起こって、一時教育ママというような問題もございましたけれども、学校教育の中である程度の生徒も自由度があった方がいいような私も気がしたりするので、少人数のそういう現況、学校荒廃というのが人数の問題であるのかということと
これにもう鞠躬如として努めておりますし、教育ママも、さあおっこちたんじゃだめじゃないか、もう少し偏差値を高くと言いますし、隣近所の皆さんもそういう眼でそれぞれの子供を見ているというようなことで、子供だけではありません、周りの環境がこの知育だ、知だ、知だ、知だと。 失礼でありますが、テレビなどもクイズ番組の中であります。
そして大学に入って、教育ママに、一流企業に勤めなさい、こういうような中で育ってくるわけですね。 しかし、私どもの大学でも父母会というのがあるんですが、学生諸君の進路選択は非常に難しくなっているので、父母会を開きますと、以前は母親が圧倒的に出席していたのが、最近は父親も一緒に来る。大体、団塊の世代なんですが、明らかに自信喪失なんですね。既存の経済的な仕組みがもう制度疲労に陥っている、銀行も含めて。
そして、それに対して、科学技術庁が教育ママ的に非常に過保護であった。そして、それが事故のときにひじ鉄を食らったものでございますから、動燃団がろうばいしたのではないか。私は、ちょうどそのころ北海道におりまして、東京の雑音が余り入っておりませんので、感じだけで率直に申し上げますと、そういうところがあったのではなかろうかというふうに思っております。
はしの上げ下げまで口を出すような教育ママの大蔵省を、うるさいことは言わないがいざというときにはがんと言う威厳のあるパパに変えようというのが今回の大蔵改革の趣旨だと与党プロジェクトチームの伊藤座長が言われておるのですが、それならば、私からのお願いであります、そしてこれはもう国民からの願いでありますが、なるほど大蔵省も身を削ったということがはっきりわかるような改革を進めていただきたい、これが重要だと思いますが
それを少し過保護な教育ママ的など言われればそれはそういう御指摘もあるかもしれないけれども、しかし行ってくれという指示を出す以上はそれは当然のことなんだろうと私は思っておりまして、その限界はどうしても超えられないのでございます。
地方に任せることはどうも危なっかしい、こういう教育ママ的な中央官僚の発想が私は地方分権を阻害してきた一番大きな原因ではないか、このように思いますし、その下にあります「政治的決断によってのみ推進される」、これはまさに我々に今問われていることではなかろうかというふうに思うわけです。 実は、きょうここに参りました委員は大半が県議会の出身者、また溝手委員は首長さん、市長さんの出身であります。
ですから、そこのところは、もう要するに町をつくるのは、役人の方が過保護なママ、教育ママのようなことをやる時代は終わった、いい町をつくるのもよくない町をつくるのも皆さんの腕次第、皆さんの協力次第でできるんだよ、それを一度やってみなさいという時代に入ってきたんじゃないかと思っているんですね。
特に、これは特別な例でありますけれども、教育ママが我が子のそういった射精、自慰というような、そういう我が子の悩みを見かねて母子相姦にまで至ったなどというおぞましい事態も発生しておるわけであります。
そういたしましたならば、司法行政の方もそれに応じた多少の枠を広げることを考えていかなきゃなりますまいし、もう一つは、やはり転任の問題というのが、教育ママの問題とも絡みまして非常に難しくなっている。
だから、教育ママと言われる、まあ教育ママと言えば体裁がいいかもしれぬけれども、こういう人たちが先生を選別するんだ。そうすると、物すごい先生にはプレッシャーがかかる。そうすると、この制度というのは一体だれにメリットがあるんですか。
ということは、どうもこれが実施されますと、中小企業が役人好みの企業に育てられるんじゃないかという気がするんですね、教育ママが育ったような。そしてどうも今後はやっぱり行政が過干渉、干渉し過ぎるというのは余りよくないんじゃないか。したがって、どなたかがおっしゃるように、民活という、そういう活性化をかえって阻害するんじゃないかという気もするわけですね。
また、子供たちにいたしましても、父親は会社人間で朝早く出て夜遅く帰ってくる、ほとんど父親とはすれ違いのような生活であって、父親と触れ合うということが余りない日常生活、家庭の団らんも余りないというふうな日常生活をしていて、子供の養育というものは母親が一人で引き受けざるを得ない状態で、その結果、教育ママがうんとふえましたり、それも教育ママは結構ですけれども、過度の教育ママというのは困るわけでございまして