2021-03-16 第204回国会 参議院 文教科学委員会 第3号
日本学術振興会特別研究員、東京大学先端科学技術センター所属の中村雅也さんは、著書の「障害教師論」の中で、私は、障害教員の当事者団体である全国視覚障害教師の会、ノーマライゼーション・教育ネットワーク、日本教職員組合障害のある教職員ネットワークなどの集会において、障害教員が学級担任を希望しても実現されないという当事者の訴えを度々耳にしてきた、他方、障害教員への配慮として担任を免除しているという教育委員会
日本学術振興会特別研究員、東京大学先端科学技術センター所属の中村雅也さんは、著書の「障害教師論」の中で、私は、障害教員の当事者団体である全国視覚障害教師の会、ノーマライゼーション・教育ネットワーク、日本教職員組合障害のある教職員ネットワークなどの集会において、障害教員が学級担任を希望しても実現されないという当事者の訴えを度々耳にしてきた、他方、障害教員への配慮として担任を免除しているという教育委員会
教師論というような言葉を生意気にも書かせていただきましたが、先生は人間をつくる仕事。私も教育委員のお仕事をいただいて、どういうふうにこの任を果たしていくかというような中で、古い本でございますが、森信三先生がお書きになった、昭和十二年から十三年、師範学校での講義録を拝読させていただきました。 やっぱり、人間をつくる仕事ということですので、教師がまず人間力、教師力を培わなきゃいけない。
それから、教師論でいえば、そんなに僕、難しくはないと思うんですね。子供から愛され信頼される素朴な先生づくりの政策、そこでいいんじゃないかと、昔からそんな変わらないんじゃないかなというふうに思っています。
最後に、私は教師論を申し上げたいと思うんです。 私は教師論を考えるときに、またこれも私の気持ちの中に、ぐさっと刺さっているように大きく響いている言葉があります。 それはソクラテスの言葉でありますが、ソクラテスは、教育は拒否に始まると言っております。あなたはもう勉強する必要ありませんよ、私のところなんか来なくていいですよと言って一遍断る。
○銭谷政府参考人 今、教師論について、先生からいろいろお話を承ったわけでございますが、先生お話ございましたように、やはり教員には、人間、子供の発達、あるいは成長についての深い理解、あるいは教育的な愛情というものが要請されるんだろうと思います。
教育論から考えて、教師論から考えて私は必ずしもその論は成り立たないと思う。やはりそこには財政的な自らの責任を伴う任命権が生ずることによって初めてその一つの基礎的自治体は自らの地域における教育の様々なアイデンティティーや新しいクリエーティビティーに富んだ政策を出してこれるんだろう。そこから教育委員会の活性化といったようなものも私は十分考えられるのではないだろうかと。
私は、教師論で随分調べたんですけれども、いい学校の先生はいい家庭の親かという、これは大問題なんですね。名教師を調べますと、ほとんど独身の女性が多いんですよね、国語の先生で大村はまさんが典型ですけれども。
○松浪委員 科目名は自由だということでございますけれども、例えば教職概説だとかあるいは教師論、教師の使命とその一生というようなことを考えられているということでございますが、これに類似するような科目であれば各大学の自由裁量に任せるということなんですか。
かつての教育原理、従来の、教育の本質と目標、教育の社会的行政的な事項そのものが、広義の教職ガイダンスの役割を担っていたものと考えられ、その中には、必ず、教師論、教職論、教職の専門職論、教職への勧めを含んできたものと考えております。今日、あらためてそれのみを二単位三十時相当講じることの意義を明確に提示することは難しいように思います。
まず答申では、教師論など、教職への志向と一体感の形成に関する科目を必修科目として新設することが提言されております。教職に対する情熱というものは、志願者本人の志向や性格によるところが大きいわけでありますが、採用後の教員生活には、学生のそれまでの児童生徒としての立場から想像することを超えたさまざまな職務の実態があるわけでございます。
今回教職に関する科目がふえるので非常に偏った教師の卵が育つんじゃないかという御指摘でございますが、例えば新しい科目として教職概説でありますとか、教師論でありますとか、教師の使命でありますとか、教職への志向と一体感の形成に関する科目、こういうようなものを新たに設けてはどうかとか、あるいは総合演習という新しい科目をつくりまして、そこではむしろ幅広く、例えば少子・高齢化問題に関する演習をやり、それと実際の
そういうようなことから論じていきますと、それをあえて承知の上でやられたというならば、いわゆるそれは教師論に返りますけれども、教師というものの像を一体大臣初め文部省はどう考えているのだろうか、またそう疑いたくなる。先ほど大臣はりっぱな教師像のことについて教員に期待するところのものを言われた。
NHKなんかも毎年毎年、もう四月になりますとすぐ婦人教師論などを出しまして、お母さんを大ぜい集めまして、いや当たったの当たらないのなんて、そういうことをやっておられますけれども、私はそういうことに対して本当にもう何か胸が痛むというんですか、怒りを持ちたいというふうに思っているんです。けれども、事実そういうことはあるんだろう。そういう言葉が当然出ているということも、私自身も耳にしています。
○受田委員 私、時間が進んでおりますので、縮めまして、いまの具体的な教師論にちょっと触れていきたいのです。 文部省が提案されて、いま一般職の職員の給与に関する法律の継続審議の改正案の中に、伏線としての主任手当というものが出ておるわけです。私、戦前戦後を通じて六年間学校長の経験をしております。一般教師の経験もしておる。主任ということも経験した。
次に、私は特殊な問題についてひとつお尋ねをしたいのでありますが、先ほど教師論というような立場でいろいろお話がございましたが、私はその教師論という立場に立ってみましても、また私学の経営という教育的な経営という立場に立ってみましても、はなはだ問題が多いと思われます鹿児島の国分市にあります坂元学園の問題について、監督官庁である文部省の考え方をお聞きしておきたいと思うのであります。
だから、そういう教師論というものを、これをもう一回私は再認識する必要があるんじゃないか。第三の立場、これは教育者も家庭人でありますから、家に帰ったときは妻に対しては主人であり、親に対しては子であり、子に対して親である。宗教を語り、いろいろ友情を温める、そういう個人的な生活があり得る。
そういう点から考えますと、教師論の問題は、政党間のやりとりとかいうことではなくて、教師自身がまあ私自身も日本の教師の一人でございますが、教師自身がいまやらなければならないことは一体何なのか。わけても、やれることは何なのかということを真剣に問い詰めていかなければならない時期にきているというぐあいに考えております。
総理大臣のことについては、教師論その他も最近出されていますから、それはいま委員長のほうで総理大臣をこの文教委員会の席上に出ていただく御努力がなされておるそうですから、そのことは総理大臣に聞くべきことでありますが、ただ私は、この田中総理が、知恵太り、徳やせと、こう言っておりますので、私は、必ずしもいま知恵太りの状態ではない、知恵は必ずしも正確に、しかも基礎学力がつけられるような状態にない面がたくさんあるということを
教師の学習会において、教師はそういうものでないという教師論の論議ならわかるのですよ。これはそうではない、給与制度なのですから、私はどうしても納得しない。再考される余地はないですか。