2018-03-20 第196回国会 衆議院 財務金融委員会 第8号
私も教員一家ですけれども、そんな教育を受けたことはないですよ、適当にごまかせなんて。いいかげんにしてほしいです。 それで、もう一個お伺いしますが、十九日の日に池田さんから新聞記事をもらいましたよね、こういう内容ですと。その新聞記事を見て、市の教育委員会に電話で確認しましたね。そのとき、どういう内容を確認したんですか。
私も教員一家ですけれども、そんな教育を受けたことはないですよ、適当にごまかせなんて。いいかげんにしてほしいです。 それで、もう一個お伺いしますが、十九日の日に池田さんから新聞記事をもらいましたよね、こういう内容ですと。その新聞記事を見て、市の教育委員会に電話で確認しましたね。そのとき、どういう内容を確認したんですか。
ここは、ありていに言うと、教員一家。 教員一家の人たちが、自分の身にかかわる不祥事、ある意味では不祥事になる、仲間の昇進が塞がれるかもわからないような事柄について、まずはそういう仲間の先生のことを考える、また、みずからの保身に走ることになりがちなのは、私は人間のさがとして当たり前じゃないのかなと思っているわけであります。
これでは、必然的に、教育長をトップとする教育委員会事務局の教員一家の人々が事実上教育委員会の実権を握り、教育行政を動かしていると言っても、これは過言ではないと私は思います。 しかも、実際に動かしているこれらの人々は、責任をとらない。議会のチェックもままならない。責任をとるのは教育委員会という合議体。
そして、その教育長をトップとした教員一家の方々が教育行政を実際は動かしていて、ここが問題なんですけれども、政治的中立性の名目のもとに余り追及を受けないということであります。要するに、言葉を選んで言わなきゃいけないと思いますが、これは本当に、教育行政については自分たちが専権事項的に行っているというのが一つの実態じゃないのかなというふうに私は思います。
父母も教員であるし、おじおばも、また兄弟も教員をしているという、いわゆる教員一家と言われた中に育ったわけでございまして、教育には関心を深く持っておるわけでございます。その中で、教育というものは本当に難しいものだということ、特に本当に心の問題であり、その心が一体化した場合には、それぞれの心の中に自分の教師、先生というものを一生忘れない関係ができるわけでございます。