2016-11-16 第192回国会 衆議院 文部科学委員会 第6号
かつて、ゆとり教育の中で、教師は指導者ではなく支援者だから、教え込みはいけないといった議論が横行し、それを扇動した文部科学省の官僚もおりました。ゆとり教育は、知識を機械的に一方的に覚えさせる詰め込み教育の改善策として打ち出されたものでありましたが、知識を教えることは教育にとって必要不可欠であって、知識なくして、生きる力も英知も知恵も育むことはできません。
かつて、ゆとり教育の中で、教師は指導者ではなく支援者だから、教え込みはいけないといった議論が横行し、それを扇動した文部科学省の官僚もおりました。ゆとり教育は、知識を機械的に一方的に覚えさせる詰め込み教育の改善策として打ち出されたものでありましたが、知識を教えることは教育にとって必要不可欠であって、知識なくして、生きる力も英知も知恵も育むことはできません。
一定の政策の教え込みであってはならないというふうに思いますので、客観性に関して、しっかりと持った取り組みをしていくべきだと思いますけれども、再度答弁をお願いいたします。
結び付いていかないだけではなく、例えばその学生の持つ悩みというのは、自分の授業はどうしても一方的な教え込みになってしまい、なかなか子供たちの興味、関心を引き出せないとか、どうしても四十人学級になってしまうと一人一人に目が配れない、周りの子たちからはじかれている、無視されている子供たちにどのように接しようか、進み具合の遅い子にどのように勉強をフォローしていこうかなどといった、将来教員を目指している教育学部生
あるいは子供たちが、ただ教える、教え込みを受ける、あるいはただ学ぶというだけで、自ら進んで課題を見付けたり自分でいろいろ判断をして更に発展的な学習をするといったような、言わば意欲、関心、そういうものに応じて学習をするということが十分でない。そういう体験不足、あるいは学習意欲の問題。
教え込み教育から、子供がみずから学ぶ教育へと時代の流れは大きく変わっているにもかかわらず、一方で、なかなか進まない教育環境の整備があることを指摘しておきたい、このように思うんですが、文部大臣、いかがでしょうか。
家庭教育の中でのそういうふうな教え込みというんでしょうか、そういうこともひょっとしたら落ちているのかもしれないし、そういう家庭、地域社会が同じ責任を持ってやっていくと同時に、やっぱり教育の現場でそういう社会性をどう身につけるかということを本当に真剣に考えていかなければならぬな、こういうふうな思いを強くしておりまして、委員御承知のとおりでございますが、私どもは体験学習あるいはそういう中にボランティア、
また、総合的学習の時間は、特に知識の教え込みからみずから課題解決学習をしていく、そういう場として今までの教え方を抜本的に変えていくということで、教科横断的、総合的な課題につきまして、例えば福祉であるとか国際理解であるとか環境であるとか、こういった事柄について子供たちがみずから課題を見つけて問題解決的に学習をしていくということでございまして、特にここにおきます活動は、各教科で身につけた基礎、基本としての
と同時に、単なる知識の教え込みということではなくて、その知識を自分で使って考えて課題を解決していく、こういったことを重視していこうという意味で、現在、ゆとりの教育と生きる力の育成という観点から学校教育を推進しているわけでございます。
例えば、これまでの教え込み授業だけでなくて、子供たちがみずから学ぶ図書館活用の調べ学習を導入したことで、子供たちの学習意欲が大変高まったという教育実践もたくさん聞いております。 調べ学習は学校図書館が情報源であります。学校図書館を活用することで、子供たちはいろいろな情報にアクセスできます。
ところがこれに対して、明治がわずか二十数年の間に、教育勅語によって国民の思想統一、教育についてのまさに教典というものによるいろんな制度づくり、あるいは教え込みといいましょうか、そういうふうな時代に変わっていって、この教育勅語をつくっていく背景に森有礼という方がお見えになって、森・福沢論争というのが随分あったようでございまして、そのこともよく今議論されているところでございます。
西欧等の場合には二歳、三歳ぐらいまでの間に基本的なしつけはやってしまう、そして十三、十四ともなってくれば相当自由を認め、かつその人の自己責任において行われるというふうになっているそうでありますが、日本の場合には幼児期等における基本的なしつけとか規律の教え込みが不十分という感じがいたします。
と同時に、この押えつけ、あるいは教え込みということは、内容の問題がきわめて重要でありますけれども、同時に、これはやはり方法的にも考えてみなければならない問題でありまして、先ほどから私何回も申し上げておりますけれども、在来、生活指導でやってきたものを、ある程度上から取り上げて、特設時間でやるということになりました場合の違いというものは、やはり特設時間となりますと、一応そういうふうにすることは、必ずしも