1971-12-03 第67回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第9号
○西村(直)国務大臣 私も衆議院議員でございますので、前から各社の政治部員さん方とはときおりおつき合いはさせていただいております。
○西村(直)国務大臣 私も衆議院議員でございますので、前から各社の政治部員さん方とはときおりおつき合いはさせていただいております。
前回の報告でお聞きのことかと思いますが、事件の起る前に、からだが悪くて収容所内で軽作業をやっておった者の中から、向うの政治部員あるいは労働係将校というものが立ち会って、前後二回にわたって約百名、表の就労を強制されたというために、今度の事件の口火がついたわけでありますが、そのように、逐次日本人の体力というものが低下して参ったのであります。
そのときに、政治部員であるところのマカロフ少佐と、それから第一分所の所長であるところのシリュウシキンという高級中尉とが、医長の診断をしておりますところに立ち会いをいたしまして、そうして医長が医学的の見地から、これは営外の作業は不適であると診定したものを、二人の医師以外の職員が干渉いたしまして、外へ出す者をきめたのであります。
そのことも知りませんで、私が当時の支庁長尾崎氏などと一緒に抑留されました後、一時釈放されまして、従来の行政部門をソ連上陸軍に引き渡しをしろというソ連側の司令官の命を受けまして、自分らがやっておりました樺太庁内部の行政を全部書類でまとめまして、上陸軍に引き渡すべく、また住民の治安を維持し、また生活の保障などにひたすら働いておったのでありますが、十二月の十七日に、本部の豊原から迎えに来た武装した兵隊と政治部員
たとえば亀沢証人によると、ソ連側政治部員キシロフ中尉が、收容所あてのロシヤ語の印刷体の文書を示して読んで聞かせたと言つておるのでありますが、これがかりにその通り真実であつたとしましても、これをもつて徳田球一氏がソ同盟政府に対し、反動は帰すなという要請をしたことを直接証明する証拠となり得ないことは明白な事実であります。このことは報告書自身も証明しておるのであります。
併しながら当時の收容所内におけるソ連の政治部員の方針と相反するものが沢山ありまして、相当四名はお叱りを受けたり、いろいろ詰問をされておりました。丁度四十七年の十月この四名を検挙しまして、五十八條の十項、十一項を以ちまして思想犯として十年の刑を貰いまして、一番遠い人は千六百キロの奥地へ入りまして……。
そうして彼らは直接政治部員の指導の下にこの在ソ……残りし二年半の教育を続けたのであります。そうしてこの第一番目の條項としまして、先ず作業をさせるのに、與えられたるところの一人に対する糧秣の幾らかをパーセントによつてへずつて行つたのであります。お前は一〇〇%できないから、砂糖の配給或いは栗、スープの量、野菜の量全部へずつて行つたのであります。そうして一〇〇%以上稼いだ人にそれを與えました。
これは労働大隊の大隊長、元反フアシスト委員長、これは四年を通じてこの民主運動の笠を被つて、後にソ連の政治部員の力を藉りてこねまわしておつたのであります。そしてもう一人橋出秀夫、はつきり分りません。今度の四十九年の十一月の帰還者であります。マガタンから来た及川敏郎もその通りであります。
自分達は又騙されるのじやないかと、余り気に留めておりませんでしたが、そのうちにここの政治部員も今月の二十日頃帰る、というのは二十三年の九月十日頃の話であります。
そうして一個のグループを結成しまして、そのグループにおいてソ連将校政治部員のニシチエレンコという上級中尉の指導の下に、各グループごとに、ソ連の社会情勢並びに共産主義の実体というような方面において、あらゆる講義、あらゆる指導をブルガーシルを通じて教えておつた。
罪惡史或いは自己暴露史という名の下にその紙が配給された、それを書いたものは、それが一応委員会の方に纏まり、委員会の方から直接政治部員の方に提出され、政治部員から向うのいわゆるオーペルと言つております工作部員という……、工作部員というものの内容はこれは人を挙げる方であります。簡單に申しますと人を挙げる方であります。普通政治部員と申しますのは補導部員と工作部員と二つに分れております。
○鍛冶委員長 日本新聞その他等で、日本共産党の政治部員がいろいろ説を載せたり、指導的のことを述べたのが載つておつたりしたそうですね。
そのはがきを政治部員(ソ連将校上級中尉)から病院民主グループ委員長石田へ、さらに宣伝部長崔景勝に渡された。崔はそのはがきを本人に渡すとき多くのアクチーブを連行し、十号室の病床に来て曰く「大きな声で読め」と。そしてその書面に対し批判を下すとともに、本人を徹底的に吊し上げた。そのため相磯は思いつめ、黒パンや蕪麦の食事にすら喉を通らなくなり、急速度に衰弱惡化した。
木村(公)委員 証人にお尋ねいたしますが、直接に徳田要請にあるいは関係がないかと思いますが、あなたがソ連へ連れて行かれて帰られるまで、絶えずいわゆるソ連の言うところの民主化に迎合すれば帰してもらえるというような気持を抱かれたことであろうと思いますが、いろいろの職場において、日にち等はもちろん不明であつてもかまいませんが、たとえば仕事をしているうちに、だれかアクチーヴになつた者からこう言われたとか政治部員
そういうふうにソ側の政治部員からはげしく言われたのであります。中央委員会でつるし上げを食いました。君の方針をかえなかつたらいかぬ、われわれは大衆を利用するのだ、われわれの目的は世界の民族の單一化である。そういつた観点から見て、君の方針は間違つている。
でありますからソ側の政治部員の将校の勧めによりまして、パンフレツトを読む機会を與えられましたことによつて、それに入りました。
私は自分の目で見、自分の耳でソ連の中隊長、政治部員より、直接個人的に聞き見たのであります、こうなつておりますが、これはどういうことでありますか。
○吉田証人 それは種類によつて違いますが、ロシヤの新聞、たとえばプラウダ、あるいは太平洋の星などにソ連記事として出たような場合には、政治部員がそれをわれわれに読み聞かしたこともありますし、あるいはアカハタ新聞の転載記事、あるいは日本新聞に出ているような特殊記事、そういうものは日本人の反ファシスト委員会のアクチーブというものが交代でわれわれに読み聞かしてくれたこともあります。
○亀沢証人 まあ私のその当時の状況判断でありますけれども、これはおそらくハバロフスクもしくはモスクワから、各政治部員に対して、日本人捕虜教育のために送つた文書だと思います。だから徳田要請はその文面からすればあつたということになります。しかしその周囲の状況から見まして、自分自体としては、当然あるべきことであると、そのこと自体は何にもふしぎに思わなかつたのであります。
とにかく四七年、四八年あたりは政治部員がすべてを完全にリードし、收容所長もみずからイデオロギー教育に重点を置いてやつて行つておりますので、私の入所した四七年ごろまでのメーデーは、そんなぐあいであつたわけであります。
○吉田証人 私の收容所は、当時反共、反ソ感の最も強かつたところですが、壁新聞を発行するようにソ側の政治部員から言われたのです。当時大隊長であつた越智大尉は、壁新聞を出さなければならないのだが、記事を書いて出す者がいないと言われたので、私はやはりゼスチュアとしてやることが必要であろうというので、私個人としては独ソ戰のドイツの敗戰論を書いたのであります。
尚政治部員というのが各收容所におりますが、私達の場合においては、そのキシローフ・カピタンが政治部員の代りをやつております。
○証人(亀澤富男君) 菅証人が言われましたことは、そこで政治部員がこういうことを言つたという、この程度の問題でしたら、恐らくソ連の政治部員も大体言つたと思いますが、これは非公式、公式を通じまして菅通訳の言われましたような、日本の共産党はそれを期待しておる、又はその日本の人民は君達が立派な鬪士として還つて来ることを期待しておるということは、これは向うの政治部員、将校、又は地方人、あらゆるすべての階級の
そうしますると、この人達は更にその日より二三日いたしましてから、今の毎日新聞にも載つておりましたが、上村宗平その他は、技術者であつて測量をやつておりましたときに更に特に呼ばれまして、そうしてソ連の政治部員からこちらに来いと言われながら、その部屋に入つて参りますと、奥の部屋があつて、その奥の部屋には徳田書記長とデレヴイヤシコ中将と思われる人との握手の写真があり、それから多くの共産党の幹部の写真が並べてあり
○草葉隆圓君 従つてそれは今は向うがそういうふうに利用したということであるならば、それは向うの政治部員が日本共産党を利用して、そうして反動分子は還すなということでやつたので、日本共産党自身は敢て関しない……。(「議事進行に関して」と呼ぶ者あり)そういう意味に我々は解していいですか。
政治部員ですか何ですか。その人か講演並びに質疑応答について多分通訳されたと思いまうか、その通訳の全体に旦つて、あなたか脇から聞いておつて、それらのことか大体内容においては、その通訳の内容ですね、あなたかお聞きにたつたことも、いわゆるロシア語で話している将校の言つたことも、管さんが話したことも、あなたか聞いたことも、大体の内容においては一致しておりますか。
自分がそういうふうなことをやつておつたのでは到底收容所は政治運動が高揚しないという目論見の下に、日本人の当時委員長であつた山田、ソ側の政治部員から自分は追放されまして、ムーリの二百十三隊に強制労働として自分は收容されたのでございます。それが四十七年の四月でございました。
けれどもソ同盟の真実と、この真実を本当に体得するにはどうすればいいかということは、これは狭い限られた俘虜生活の間から、一人々々の地方人に接するなり、そういうことによつていろいろなる事実を知るということも、これは一つの真実を知るということであると思いますけれども、やはりこの収容所なら收容所における生活、これはやはりボルシエビキなり、向うの政治部員の指導によつてその生活が行われるし、この意味においては、
この問題で質問に遭遇しまして、自分もこれを政治部員に聞いたことがあります。そうすると、これは中央へ報告し、それから抑留者を通じて、これは本国政府へこれを知らせるようになつておるから大丈夫だという回答を受けておつた。そういうわけで自分はそれを信じておる。従つて、ここでその死亡者の通知がなかつたということは、正式に聞くのは初めてであります。
次は民主運動につきまして反動收容所だという理由から、いずれの收容所でも行なつておりました民主運動というものは、ロシア側の政治部員及び宣伝部員のラジオノフという名前でありますが、この者が私にもはつきり申しましたし、連隊長にもはつきり申しておりました。お前らは反動であるから民主運動をやらせない、こういう結果九月の上旬まで民主運動はやつておりません。
現在向うで政治部員のあの如何なる言動をもこれは全く絶対視されております。作業に関しましては、是非これは申上げて置かなければなりません。私の一つの例を出しますが、私の收容所は大体高級将校、ハバロフスクの十三分所でありまして、一番年齢が多いのであります。平均年齢は約四十歳ぐらいであります。
その他、討論会それから政治部員の講話、政策部員の点検、これは口頭試問をやるようにして政策部員の何回かやつた成果をソ側の政治部員が点検するのであります。教材としては日本新聞で、これはハバロフスクの極東空軍の横にあります。この論評は、ソ同盟の強化は日本の強化である、平和をする唯一のものはソ同盟の強化である。従つてお前達は働け、こういう論評であります。世界は二つである。
兵、下士官の方におきましても反動と目されるところの者に関しては、全部一日の行動に監視員を付し、收容所以外の作業場に出さないというような方針の下に一個所にまとめて、日常の行動すべてを日本人の監督でやつていると見せかけて、すべてはソ連政治部員の指導なくしては何もできないということで、彼ら自身も言つている通りにすべてがソ連側の指示によつて行われております。
これをソヴイエトに流しておつたかという質問でありますが、そういう事実は一部にあつたかも知れませんが、全般としては、一週間に一回、或いは一ケ月に数回に亘つて政治部員、つまりコミサールと言つておりますが、この人が点検に来ますので、ソヴイエトの側においてはそういう不正は全然なかつたと、私は断言するものであります。
そのために体が惡くなり、そしてこの度の遣送のあれになつたのですけれども、その遣送の命令を受けたのも、ハルピン医科大学では、絶対秘密で、政治部員に呼ばれ、あなた達はよいことがあるのですと言われたのです。どんなよいことかと聞けば、あなた達は、体が弱いから奉天の総衞生部に行つて転地療養をすれば必ず胸部疾患は治るからといわれたのです。どこに行つても、日本に帰つても中国にいても革命をするのは同じだ。