2010-04-21 第174回国会 衆議院 内閣委員会 第8号
もちろん、このことはひとり内務省だけのことではありませんで、大蔵省でも、田中政友会内閣で選ばれた黒田英雄次官は、浜口民政党内閣では交代、そしてその後、犬養内閣でまた次官に復帰ということになっているわけであります。 私が申し上げたいのは、今回の公務員法改正によって、近い将来、政権交代のたびに一般職の幹部公務員がころころとかわるような事態になっては困るということを申し上げたいのであります。
もちろん、このことはひとり内務省だけのことではありませんで、大蔵省でも、田中政友会内閣で選ばれた黒田英雄次官は、浜口民政党内閣では交代、そしてその後、犬養内閣でまた次官に復帰ということになっているわけであります。 私が申し上げたいのは、今回の公務員法改正によって、近い将来、政権交代のたびに一般職の幹部公務員がころころとかわるような事態になっては困るということを申し上げたいのであります。
問題はその後で、その文章をそのまま言いますと、政党の人事介入は田中義一政友会内閣にかわる浜口雄幸民政党内閣のもとでも繰り返された、最後の政党内閣となる犬養政友会内閣で過度をきわめた、しょうけつをきわめた、結局それが、政党に対する国民そして軍部の不信感や反発というものを深めた、軍部の政治進出を果たしたことになったんだ、軍部独裁につながっていった。
大正七年の九月に初の本格的な政党内閣、原敬政友会内閣が成立しております。これも大隈の期待したところであったかとは思います。しかし、総理大臣の統制権が実は弱かったというところから、軍部に、陸海軍大臣の現役武官制や統帥大権などを理由に政治介入を許してしまったという点も見落としてはならないとは思います。
東大名誉教授の中村隆英氏は、その著書「昭和史」の中で、当時、野党政友会と結託した枢密院が、いわゆる台湾銀行救済緊急勅令案を否決したことが各銀行の取りつけ騒ぎにつながり、さらに、その後、政友会内閣になったものの、当初は否定していたものと内容は軌を同じくしている台湾銀行救済法案等を、同じ政友会が今度は与党として決定していく政争の政治のプロセスを、ひ弱なデモクラシーと表現しています。
そして、台湾銀行に対する取りつけが起こるのでありますが、三日後の四月二十日に田中義一政友会内閣が成立するということになる。
戦前、あの民政党と政友会の時代に、民政党、政友会、内閣がかわったら巡査までかわるぐらいに捜査自身がそういう党派、党略によってゆがめられたという話を私どもも子供のころよく聞きましたけれども、自民党の政府高官だった人たちのこういう行為については、あいまいな態度をとればますます国民は疑惑を持つんですよ。そういう人であれば、最も厳しく、びしびしとやらにゃいかぬですよ。選挙部長はどうですか。
かつて政友会内閣の時代に、原内閣総理大臣が、この解散という問題について非常な慎重なお考え方であったということは、何かの本で私は見たことがございます。私は、まさにしかるべきことではないかと思うのであります。いかにそれが自由民主党の利益になりましても、解散すべからざるときには解散をしてはならぬ。自分かってな解散を認めておるのが今日の憲法の精神ではない。
それは、当時の政党政治が腐敗堕落し、すなわち、若槻民政党内閣の松島遊郭事件、田中政友会内閣の売勲事件、私鉄事件、朝鮮総督府事件など、大疑獄事件が続発したにもかかわらず、当時の検察庁は政府の圧力に屈して全く動かず、ついに政府に対する不信の声が二・二六事件のごとき右翼クーデターを惹起したのである。(拍手)この疑獄事件はいかにして起ったか。
時は大正十一年の二月、時の政友会内閣は社会運動者を弾圧するために、過激社会主義運動取締法案なるものを提案したのでございます。
大正十一年二月、時の政友会内閣は社会運動者を弾圧するために——これは牧野さん、よく御存じです。過激社会主義運動取締法案を提案いたしましたが、院の内外における反対によりついに審議未了となりました。
たとえば一番激しいのは、熊本県なんか、政友会内閣になれば、今度は全部民政党系の連中がかわる。民政党の内閣になれば、政衣会系がかわる。中央においてもそれに似たような現象が起っていたのです。そういうように、政党がかわれば役人も当然かわるべきものでございましょうか。これです。そうした方が政党内閣の政府に協力する態勢が徹底するとお考えになりますか。従って、それは必要と考えますか。
それが丁度政友会内閣から民政党内閣に移りまして、予算が潰れて実行予算になつた年があるのであります。その時この予算は通つておつたのでありますが、実行予算のために削られまして、それ以来毎年出しましたが、これはものにならなかつたのであります。
○小玉委員 くどいようですが、最後に古い話ですが、かつて陪審法を日本にしくかしかないかという問題で、政友会内閣においてこれを提出したそのときに、反対党の領袖である若槻禮次郎氏は、まつこうから反対党を代表してこれに反対された。しかしながら事破れて陪審法がしかれるに至つた際に、若槻禮次郎氏の感想を聞いたならば、自分としては法律のできるまではまつこうに反対した。
ところで、政友会内閣におきましては、政友会の二本柱であると称せられておる松田、原という人の中で、松田氏は司法省を背負つて立たれたのであります。政友会を動かすところの一番の元老であるその人が、司法というものは非常に大事であるということで、司法省を引受けて立つたために、司法官は非常に松田正久さんを感謝した。それは銅像になつて証明されておる。