2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
厚生政務次官時代には年金や医療の制度改革、子育て支援、介護保険の導入に取り組みました。小泉内閣で内閣府副大臣・総理大臣補佐官、第一次安倍内閣では総理大臣補佐官として経済成長や国家戦略に取り組みました。国会では衆議院経済産業委員長、党では広報本部長などを経験させていただきました。 特に思い入れがあったのは第二次安倍内閣の際の復興大臣兼福島再生総括大臣です。
厚生政務次官時代には年金や医療の制度改革、子育て支援、介護保険の導入に取り組みました。小泉内閣で内閣府副大臣・総理大臣補佐官、第一次安倍内閣では総理大臣補佐官として経済成長や国家戦略に取り組みました。国会では衆議院経済産業委員長、党では広報本部長などを経験させていただきました。 特に思い入れがあったのは第二次安倍内閣の際の復興大臣兼福島再生総括大臣です。
あのとき、政府は自分たち原告に対し謝罪し、その後、根本大臣が政務次官時代には薬害根絶の誓いの碑というものまで建てられました。なのに、あれから二十四年間、全く構造が変わっていません。 総理、もう一度伺わせてください。 二千人が被害に遭い、七百十四人が殺されたあの薬害エイズ事件を引き起こした真の原因とは何だったのか、覚えていますでしょうか。
この間、国民の御理解を得られる状況ができて、今回の法律案で、農地法第一条を抜本的に改正し耕作者主義を廃止する形に、企画管理のみを行う法人の農地取得に向けて大きく一歩を踏み出したという、私なんかにはそういう感のあるこの法律案、石破大臣が政務次官時代から考えていた農地制度の改革を今実現しようと、まさにしているものと理解してよろしいのでしょうか。
政務次官時代に、大臣欠席の中で政務次官が代わりに答弁をして、委員会が開かれ、採決された例は二、三あるということでございます。 お答えをさせていただきました。
それで、松下副大臣、これは農林政務次官時代のことをちょっと詳しく一問一答でお伺いしようと思って準備してきたんですけれども、時間がなくなりましたので簡単にお伺いしますが、やまりんから五十万受領したことを当初は認めていなかったけれども、認めたんですね。そうですよね。やまりんから、認めたんですよね。これは何で最初否定しながら認めることになったんですか。まず、そこから。
○吉田(六)委員 森総理もそれこそ大変なスケジュールで各首脳をお回りになられて、そしてそのときにもIT革命、このことを日本の国は本気でやりますというようなコメントも聞こえてくるようなこうした状況の中で、委員長の取り扱い、取りまとめの中で、大臣あるいは両政務次官、時代の寵児とも申し上げてもいいような、これなくしてこれからの日本は考えられない、世界に伍していくのにという、この逓信委員会、着実に豊かな結実
○小坂政務次官 時代の変化とともに、概念というものも変わるものだと思っております。そういう意味では、ユニバーサルサービスは、当初の音声による通話という部分だけで考えていた時代から見ると、大変に拡大しているというふうに思います。
○中馬政務次官 時代が変わってまいりました。したがいまして今回、この定義も少し変えたわけでございますが、基本的に申しますと、重要港湾とそれ以外のところとの関係でございます。 御指摘のように、国の利害に重大な関係を有する港湾を重要港湾、そしてそのうちで外国貿易の増進上特に重要な港湾を特定重要港湾、このように位置づけをいたしております。それ以外を地方港湾と名づけております。
両国の漁業が今後長きにわたって共存していく基礎がつくられたことは、政務次官時代から関与してきた私にとっても感慨深いものがあるわけであります。 ただ、我が国の漁業関係者の要望をすべて受け入れられたわけでもないわけでありまして、これから資源管理の問題だとかさらに韓国側と詰めていかなければいけない点もある、あるいは国内対策もしていかなければならない点もある、こういうふうに考えております。
このことについては、四月末に、高村政務次官時代、イランを訪問されまして、そしてそういうお話をされたのじゃないかな、こう思うのでありますけれども、またその後、丹波審議官もイランに行かれたというふうに聞いております。そういうときにその種の話をされていらっしゃるのかどうか。それをされていらっしゃいますか。じゃ、そのときの状況をちょっとお話しください。
今、戦後の五十年のひずみという観点から、あるいは政務次官時代の、例の神戸の事件の御経験、さらには地元のチームティーチングでありますとかカウンセラーの話をいただきました。
ただ、委員が政務次官時代に、外務省あるいは防衛施設庁、沖縄開発庁、三庁でそれぞれ事務連絡会議を開いて、沖縄の基地問題をどう進めるかということの連絡会議をつくった経過がありますが、それなどに基づいて私どもは、開発庁としては沖縄の振興開発計画を、三次の計画に基づいて着実に格差を縮める努力をしてまいっておりますが、今後ともなお一層沖縄の振興開発計画については努力をしてまいるつもりでおりますので、よろしくお
○政府委員(森仁美君) ただいまのお尋ねを伺いながら、小野先生が環境政務次官時代に私に対しておっしゃったことを思い出すわけでございます。いかに環境教育は身近なところから国民の意識改革を進めることが大切か、あなた方はよく考えなさい、今環境庁にあるこのリーフレットはこれは一体何ですか、わかりやすくしなさいと随分細かく御指導をいただいたことを思い出します。
○鈴木(宗)議員 御質問にお答えする前に、今宮里議員から私の防衛政務次官時代のお話がありましたので、このことに感謝をしながらも、私が若干沖縄に思いを寄せていることを披瀝をしまして御理解をいただきたいと思うのであります。 私は、沖縄に行きますと、必ずあの海軍壕に行きます。あの海軍壕には、大田中将閣下の最後の電文が記されております。
すなわち、松永文部大臣が、私の政務次官時代に教育改革の第一歩として経済界の皆様方にお会いをされて、ブランド志向というか、この学歴偏重社会打破のために皆さん方をかしてくださいと、こう頭を下げたシーンを今でも思い出すわけでございまして、中央官庁が東大出を半分にしようというのも一つの考え方かと思いますけれども、企業の方が少してもいい大学を出た人間を出世させる、そういう風潮が続けば、いわば学閥というのでありましょうか
今日まで取り組みました仕事の大きな問題は、通産大臣二回とすれば、四回の大臣、政務次官時代を通じて石炭対策と言ってもよかったかと思います。労働省時代も離職者対策で対馬委員とはいろいろと建設的な相談をし合った。時にはおしかりも受けたわけであります。
三十五年の政務次官時代に、予算折衝があって、三十六年度を初年度とする二兆一千億の道路整備五カ年計画というのができたのです。第二次池田内閣です。そういうことで大変な時代だったわけです。 私は考えてみれば三十年以上、つまりガソリン税というものが創設されたころからの歴史を全部知っておるし、それに直接かかわり合ってきた人間なんです。
しかし、いざこれを具体化する、これは大変なことでございまして、私は今まで、政務次官時代を入れますと随分幾つかのお役所に奉公したわけでございますが、とにかく一が組織、権限、二が予算、これに関しては我々党人政治家というものでは、つまり我々庶民という立場では考えられない。
かつて緊就というのは政務次官時代にやった問題、それから労働大臣のときも離職者対策あるいは職訓等手がけてまいったものでございますから、通産省の役人にももちろん優秀なのもたくさんおりますけれども、労働問題に関してはやはり何といっても労働省は玄人だ。
私は、昭和三十八年に労働省の政務次官時代に石炭の緊就という問題と取り組みました。その後、労働大臣のときにまた離職者対策と取り組みました。そういう経験にかんがみまして、雇用政策というものが単純な考え方では十分な効果を発揮し得ないということを身にしみて感じております。例えば一口に研修、職業訓練と言っても、高年齢、中高年の人々に対してどういうふうにするか、いろんな難しい問題がございます。