2019-03-06 第198回国会 参議院 予算委員会 第5号
まさに与謝野晶子の弟さんは、旅順攻略戦、トーチカで固めた旅順に肉弾戦を行ったわけですが、当時の日本軍。まさに、そうした状況、それはもう身を捨てては打ち砕けるんだということを、砕くことができるんだということを明治天皇は言っております。 そのような歌を、安倍総理に伺いますが、よろしいですか、安倍総理に伺います。
まさに与謝野晶子の弟さんは、旅順攻略戦、トーチカで固めた旅順に肉弾戦を行ったわけですが、当時の日本軍。まさに、そうした状況、それはもう身を捨てては打ち砕けるんだということを、砕くことができるんだということを明治天皇は言っております。 そのような歌を、安倍総理に伺いますが、よろしいですか、安倍総理に伺います。
攻略戦の訓練を受けていた全員が、みんな攻略戦を受ける前にキャンプに行くと。その訓練を受けたある日、軍法、軍の法律、軍法の最高権限を持つ部隊の法務官に招集された、そしてこう言われたと。
攻略戦の訓練を受けていた全員、みんなキャンプに行きますから、訓練受けますから、ある日、軍法、軍の法律ですよね、軍法の最高権限を持つ部隊の法務官に招集され、こう言われたと。武器を持つ人間を見たら殺せ、双眼鏡を持つ人も殺せ、携帯電話を持つ人は殺せ、何も持たず敵対行為がなかったとしても、走っている人、逃げる人は何か画策しているとみなし殺せ、白旗を掲げ命令に従ったとしても、わなとみなし殺せと指示した。
平成十九年六月十九日に公表された、議連の南京問題小委員会の調査検証の総括というものを見ますと、「南京攻略戦が通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った。」とまとめてあります。この立場は現在なお変わっておりません。
先日、ドイツを訪れた中国の習近平国家主席が講演で、支那事変時の日本軍による南京攻略戦について、日本は三十万人以上を虐殺した、また、支那事変全体で中国人三千五百万人以上に死傷者が出たと発言しました。この問題では中国の主張に根拠がないことは明白です。
それと、一九八〇年ごろには、南京攻略戦当時のニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズが所蔵されていたんです、新聞の記事。ところが、あったにもかかわらず、現在所蔵されていないということなんです。これはどういうことなのか、やはりきちっと調査していただきたい。 あの当時、ニューヨーク・タイムズに虐殺があったという記事、十二月十八日だけあるんです。
資料四を見ていただきたいんですけれども、一九八四年に、南京問題一筋に研究している阿羅健一さんが、南京攻略戦に従軍した外国新聞社の記事を調査したものがあるわけであります。今一般に言われているようなことなど、当時、第三国の新聞記事には載っていない。ニューヨーク・タイムズとかロンドン・タイムズだとか、そういう海外の特派員が当時、南京にいたわけですよね。
では、次に移りますけれども、ことしは、南京攻略戦から七十周年になります。ことし、世界じゅうで、天皇の軍隊が組織的にホロコーストをしたとの宣伝映画が七本以上もつくられると報道されています。
その結果、反タリバーン派の勢いが増しまして、現在の時点では、アフガニスタンの首都のカブールの北部でございますが、サラン峠というところ、ここは大変な要衝でございますけれども、そこの攻略戦をめぐってタリバーン派と反タリバーン派、その中でも中心のマスード将軍の間で大変な激戦が行われておるという状況でございまして、この時点では、一週間前に比べまして、かなりタリバーンが押し込まれてきているという状況だと思います
そして、実際にそれが使われだというのでは「武漢攻略戦ニ於ケル化学戦実施報告」というのがありまして、その報告を見ると、中支軍においては一九三八年八月二十一日から十一月二十一日までの間に三百七十五回以上にわたって赤弾九千六百六十七発、それから赤筒三万二千百六十二本を使用した、その攻撃の約八割は成功し、約二割は成果が十分でなかった、こういういわゆる武漢攻略戦における化学兵器を使った状況なんかも詳しく報告をされております
私は福知山連隊で日中戦争に参加、南京攻略戦は昭和十二年十二月十日開始され、占きょしたのが十三日。私の大隊は南京城の東正門の中山門を攻撃した。激戦したが、十三日の午前三時十分、砲撃で城壁を崩し、その勢いではい上がり、軍旗を立てました。 私はその時は城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した。宿営地について陸軍省の先輩に会い、その日の午後、二人で戦場の視察に出かけた。
コンスタンチノープル攻略戦のときに用いた方法であります。 私は、軍縮もそこまでいくべきだと思うんですね。両軍から一人ずつ出して戦わせて、その勝敗で結論をつける。そうでもしなきゃ私は本当の平和というものは来ないんじゃないだろうかという気がいたしますが、総理、いかがですか。先輩はそういう知恵を持っておったんですからね。
○櫻内国務大臣 私は、当時漢口攻略戦、徐州戦を戦ったのでありますから、日本将兵としての責任を果たすため戦争行為をしたということは紛れもない事実であります。
○佐藤昭夫君 別の例でさらにお尋ねをしますけれども、日本の中国への侵略政策、植民地支配というこの歴史的事実は、たとえば防衛庁防衛研修所、そこが発行しております著書「戦史叢書支那事変陸軍作戦(1)」、こういうぶ厚い本が出ていますけれども、その四百三十六ページ、いわゆる南京攻略戦についていろいろと記述をしているわけでありますけれども、略奪、婦女暴行、放火、非戦闘員や捕虜の殺害などそういう悲惨な事実があったということを
それと首里城、また首里城の問題にしましても一つ報告しておきますが、首里城はたがわずして、わ、が国においてもヨーロッパにおきましても——マッカーサーは日本攻略戦において、文化財とすべきところの京都とかあるいはまた鎌倉とかあるいは奈良とか、こういうところに対しては爆撃するなという指令を出しておりますね。沖縄戦のときにも、たがわずして首里城を爆撃してはいけないという指令を出しているのです。
ドイツのものは徳島県の鳴門にございますけれども、これは第一次大戦のときに青島攻略戦で捕虜になったドイツの将兵が、わが国内で捕虜収容所におられる間に亡くなられた方八十五名が葬られているようでございます。 それから英連邦諸国軍人墓地、これは横浜の保土ヶ谷にございますが、ここには約千八百名の英連邦諸国の軍人が葬られていると承知いたしております。
イランとイラク間の紛争は、国境周辺の小競り合いが本年の四月ごろから行われておりましたが、この九月二十二日に至りまして、ジェット戦闘機、戦車等を本格的に投入する規模の大きな戦闘に突入している次第でありますが、戦況は、空軍が両国互いに相手国内の軍事施設、石油関連施設等の攻撃を行う一方、陸上においては、特に南部のイラン側フゼスタン州におきまして、ホラムシャハル、デズフル、アバダン等の都市の攻略戦を中心として