1950-04-12 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第24号
それであるときソ軍の偉いお方——偉いお方といつても、ピテゴロスキー大佐というウズベック管下における内務省の政治部長をやつておられる方が收容所生活を見に来られた、この收容所生活についてのいろいろな報告がなされたのです。民主運動も非常によくできているし、またあらゆる方面に生殖全く上つている、いろいろと話があつたわけです。
それであるときソ軍の偉いお方——偉いお方といつても、ピテゴロスキー大佐というウズベック管下における内務省の政治部長をやつておられる方が收容所生活を見に来られた、この收容所生活についてのいろいろな報告がなされたのです。民主運動も非常によくできているし、またあらゆる方面に生殖全く上つている、いろいろと話があつたわけです。
○石田(一)委員 これは先日もある証人に聞いたのですが、あなたの收容所生活中、一九四八年の六、七月ころから八月ごろ、あるいは一九四九年の六、七月ごろから九月ごろ、この間におきましてあなたはあなたの郷里から、もちろんあなたは死んだことになつているそうですから、お手紙は行かないと思いますか、あなたのお友だちなんかで、捕虜用のはがきによつて、日本政府の発行したはがきで、東京のある局の消印を押したはがきを受取
彼が帰国のときの人名、あるいはふだん收容所生活をやつておるときに、いわゆる反動と目される者に対して、いろんなスパイ的な人間をつけて探らしたということは事実であります。自分も彼のために一人のそういつたいぬをつけさせられたものであります。
そのときに、柴田義正氏が帰つて来て、パンフレツトなどにソ連の收容所生活などをつぶさに書いております。それが日本共産党に不利になり、またソ同盟に対しても不利であつた。
だからわれわれのいろいろな想像とか、あるいはまたマガダムの地区では現在四千名帰つたけれども、しかしまだ二千名ほどの人が收容所生活をしておるというような情報をいろいろと聞いて、日本にいる日本人よりもソ同盟におつた日本人の方が、ロシアの実情とか、あるいはどこの地方と言つたら、これが大体わかるのです。
あなたはことしの正月ごろお帰りになつて、何かシベリアにおける收容所生活に引する手記とか、感想文とかいうものを発表なさつたごとはありますか。
向うの收容所生活に関するイデオロギーの流れ、あるいは收容所生活に対する取扱い、それらに関してはまだ投稿しておりません。
先ず初めにシヤフイーフ中尉は收容所生活心得、特にカラカンダにおけるところの收容所の生活心得を日本人に対して話しました。起居とか清潔、整頓、規律というようなことについて話したわけであります。それが一応自分の話を終りましてから、日本人達に向つて、何か質問があるならばするように促しました。で、日本人達の中から幾つかの質問が出ました。主として生活問題、ところがその中にこういう質問が出しまた。
○証人(菅季治君) それは所長代理としまして、新らしく迎えられた日本人たちに対して收容所生活心得、特に清潔、整頓、それから寒さに向うところの……カラカンダ地方は九月の半ばと言つても雪が降つたこともありますから、カラカンダにおけるところの寒さに対する建物の修理ということについて語つたと思います。
併しながら大きな立場から現在このソ同盟の根柢を流れているところの真実というもの、即ち自分達が收容所生活を通じて社会主義社会における人達はどういう気持で日々の生活をやり、どういうことをやつておるかということを考えた場合に、社会主義社会こそ本当に真の平和を願い、恵まれた本当の生活を建設する、平和的な建設、こういう気分というものが横溢している、本当に誠実なロシア人であるならば、こういう本当に建設的な労働というものに
今その事件発生の原因につき反省すべき点を分析いたしましたる結果、第一に、生存と帰國とのため強き利己心に支配され、このために恰かも同胞相食むがごとき心理状態にあり、友愛と協力の精神が欠如に近いこと、(「それが軍國主義だ」と呼ぶ者あり)第二に、強い事大主義が支配的で、権力と威嚇に阿諛屈從し、且つ收容所生活の困難に伴う封建的、軍隊的観念が温存されておつたこと、第三に、各人が正義を守る勇氣を欠き、そのため人権
つまづけば倒れる、多くの友人連中は非常に心配しまして、軍医なり、隊長なりに申出て休んだらどうか、併し自分としては余り人に頭を下げるのを好まん性質でありますし、又本当な病氣で休めない人もある状況において、たとえ痩せ衰えたりと雖も、病氣でない以上休むわけには行かない、こう言うて働いておつたのでありますが、肉体の衰弱はもはや如何ともすることがなくなつて、初めて休まして頂いたのでありますが、尚收容所生活が長
○永井証人 吉村隊長と收容所生活の後半期においては事実上、絶交ではないのですが、感情の疎隔を來たしておりまして、殆んど口をきき合うというような立場になかつたのであります。
又ハラシヨー・ラボータに対して貰つた休暇というようなものも、それは全部が働いて貰つた休暇である、一人や二人の人が働いて貰つた休暇ではないのであるから、みんなでこの休暇を分割して、お互いに氣持よく收容所生活をやつて行こうというようなことで、我々同胞の味方というか、我々同胞のために盡してくれた人であります。
この收容所生活におきまして、最初はお先眞暗という状態でありました。生きて帰れるのかどうなのか、それすらも分らないという状態でありました。