2021-06-10 第204回国会 参議院 内閣委員会、外交防衛委員会連合審査会 第1号
第二次大戦で我が国唯一の地上戦が展開された沖縄及び沖縄関係者の犠牲者名が摩文仁の平和の礎に刻銘されております。昨年六月現在、二十四万千五百九十三名、そのうち十四万九千五百四十七名が県出身者でした。県民の四人に一人が犠牲になり、沖縄県民に遺族でない者がいないと言われてきました。さらに、沖縄戦ではマラリアや栄養失調などでも多くの県民が亡くなりました。
第二次大戦で我が国唯一の地上戦が展開された沖縄及び沖縄関係者の犠牲者名が摩文仁の平和の礎に刻銘されております。昨年六月現在、二十四万千五百九十三名、そのうち十四万九千五百四十七名が県出身者でした。県民の四人に一人が犠牲になり、沖縄県民に遺族でない者がいないと言われてきました。さらに、沖縄戦ではマラリアや栄養失調などでも多くの県民が亡くなりました。
私の生まれ育った沖縄本島中部の宜野湾市嘉数も沖縄戦最初の激戦の地であり、祖父母やおじ、おばたち多くが亡くなり、最後の戦場となった本島南部の摩文仁の平和の礎には、当時の嘉数地区の住民の半数を超える名前が刻まれております。 戦後も沖縄は米軍統治とされ、困難は続きました。四七年九月、米側に対し、二十五年から五十年、あるいはそれ以上、沖縄を米国に貸し出す方針が示された天皇メッセージの問題もあります。
総理は、毎年六月二十三日、沖縄慰霊の日、沖縄戦の最後の戦場となった摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式に参列されています。
沖縄戦最後の激戦地となった摩文仁に建つ平和の礎には、国の内外を問わず犠牲となられた方が、二〇一三年六月二十日までに二十四万一千名余りとなっています。 占領された米軍基地からの爆音被害、環境汚染被害、あるいは米軍人軍属による事件や事故は、沖縄に米軍基地が集中することと比例して発生しています。
水着それからシュノーケル、そんなものをトランクに突っ込んで、泳ごう泳ごうという一心で飛行場の那覇空港に着いたら、タクシーに乗ったおやじが一番最初に言った言葉が、運転手さん、摩文仁の丘に行ってくれ。 それから三泊四日、三日間ずっと親子で沖縄の戦跡めぐりをやりました。
○佐藤正久君 今大臣が言ったのは摩文仁の方であって、嘉数と全然違うんですよ。嘉数の戦闘というのは、沖縄戦において非常に大きな戦争があったところなんですよ。普天間飛行場、あの宜野湾市、宜野湾市の市民に心を寄り添うのであれば、嘉数というところは非常に忘れてはいけない大事な戦争なんですよ。嘉数のあの高台公園には、だからそこに京都の塔があって、嘉数高地、嘉数谷、大きな戦争があったんですよ。
これは沖縄県の主催でございましたが、報道によりますと、糸満市の摩文仁の平和祈念公園、ここに約四千五百人の参列者が集まって、そして二十万余の犠牲者に祈りをささげ、非戦の誓いをした、こういうことであります。 ところで、大臣に、沖縄をめぐる問題を考える上に、民意というものは何か、民意というものをどういうふうに受けとめていくかという観点からお伺いをしたいというふうに思います。
私も、一月の三十一日でしたか、沖縄を訪問いたしまして、その際、摩文仁の戦没者墓苑そして平和の礎を訪問いたしまして、沖縄の歴史や平和への思いを新たにしたところでございます。 現在の我が国を取り巻く状況、安全保障環境、委員が十分御承知のとおり、北朝鮮の核実験やそれからミサイル実験に見られますように、大変厳しいものがございます。
私は、一月三十一日から二月一日にかけまして沖縄を訪問いたし、その際に、摩文仁の戦没者墓苑、また平和の礎を訪問いたしまして、沖縄の歴史や平和への思いを新たにしたところでございますが、現在、北朝鮮の御案内のような核実験またミサイル実験に見られるように、我が国を取り巻く安全保障環境は非常に厳しいものがございます。
ことしも、来週の六月二十三日には、沖縄戦で亡くなられた方々のみたまを慰める沖縄全戦没者慰霊祭が、あの激戦の地であった沖縄本島南部の摩文仁が丘において行われます。二度と悲惨な戦争を起こしてはならない、巻き込まれてもならない。北朝鮮の問題や、イラン、イラク、アフガニスタン等、世界の情勢が厳しい今こそ、世界に発信する日本の平和外交が求められていると思っております。
先ほどお話をしたこの平和の礎がある摩文仁というところに平和祈念堂があるわけでありますけれども、沖縄戦の全戦没者のシーミーがこのほど行われることになりました。
私も、昨年八月、摩文仁の丘に行きまして、オオゴマダラというチョウチョウを放して平和をお祈りしたんですけど、六月二十三日、これは沖縄の方だけじゃなくて日本国民みんなで追悼せぬといかぬというふうに思っています。大変な犠牲を負われたわけですし、ひめゆりの塔なんか見ましても、あのガマがすぐあそこにあります。
○石破国務大臣 私は、初めて沖縄に行って、ひめゆりの塔、そしてその諸施設を見せていただいて、摩文仁の丘に立って、南部戦跡に立って、絶対に戦争というものをやってはならないということは本当に思いました。そして、リマインドするために毎年必ず沖縄に行くようにもしておりますし、子供たちにも、必ず沖縄に行ってそういうのを見るようにというふうに申しております。
第一日目は、まず、沖縄戦終えんの地となった摩文仁の丘の国立沖縄戦没者墓苑にて献花を行い、引き続き、平和のこころを内外に発信していくために建立された平和の礎を視察いたしました。そこでは、石碑に刻まれた沖縄戦等で戦死された方々の氏名の圧倒的な数の前に胸の痛む思いをいたしました。
沖縄に行って、摩文仁の丘に飛行場からそのまま直行させていただいて、大田中将がここでピストル自殺を図ったんだという海軍濠を見せていただきました。 それで、父から私が言われたのは、大田中将という人は、後世沖縄に特別の配慮をという言葉を残して天国に召されたんだということを学びました。
大臣、今、局長さんが、丁重に取り扱いをさせていただいているというふうに御答弁をされたのですが、実は、きょう私が持ってまいりましたこの写真は、沖縄で発見された戦没者の御遺骨が、摩文仁の平和の礎がありますけれども、その公園の一角に財団法人沖縄県戦没者慰霊奉賛会という建物が、これは平和の礎が非常に立派に美しくつくられているんですが、奉賛会のこの建物は、私、この前、館長さんにもお会いしてきましたが、もう古い
毎年、沖縄終えんの六月二十三日には、糸満から摩文仁の丘までの、十キロでございますけれども、平和と慰霊の行進に参加をし、そしてその後、県主催の戦没者追悼式、こちらの方に参列をさせていただいております。そうした、私は特に沖縄に対する思いというのは特別な思いがある、このことをまず申し上げさせていただきたい、このように思うわけでございます。
第一日目は、まず、沖縄が復帰三十年を迎えるに当たり、沖縄戦において戦没された多くの方々に追悼の意を表するため、沖縄戦終えんの地となった摩文仁の丘の国立沖縄戦没者墓苑にて献花を行いました。 次いで、沖縄の歴史と風土の中で培われた平和のこころを内外に発信していくために建立された平和の礎を視察いたしました。そこでは、石碑に刻まれた沖縄戦等で亡くなられた人々の氏名の圧倒的な数に胸を打たれました。
摩文仁の丘は戦争の敗者も勝者も外国人も含むという意味で、それを貫くのは不戦、反戦の意思であります。しかし、靖国神社はA級戦犯が合祀され、そしてほかの方たちは軍人として祭るということであります。このことから、そしてまた靖国神社の沿革から見ても、国家神道の象徴的な存在で、戦争中は陸海軍両省所管の別格の官幣社であり、国費で支出され、神官の任命は国の機関が行っていて、戦争推進の精神的な支柱でありました。
摩文仁の丘の平和公園の礎と靖国神社は、首相にとって同じですか、違いますか。その歴史的意味をどう認識しておられるのでしょうか。
○大脇雅子君 総理は、六月二十三日、太平洋戦争最後の激戦地であります糸満市摩文仁の丘にある平和の礎を訪問されました。 訪問されまして、まずその感想についてお尋ねしたいと思います。
終えんといいますか六月二十三日、現在、県の戦没者追悼の日になっておるわけでございますけれども、私どもとそれから沖縄県の遺族会、これが毎年、糸満から摩文仁まで十キロの平和慰霊行進を行っております。当初は那覇市から二十四キロ、あの炎天下を行進しておったわけでございますけれども、やはり皆さん高齢化しておりまして、そういったこともあれなので最近は十キロと。
次いで、沖縄戦終えんの地となった摩文仁の丘の平和祈念公園を訪れ、国立戦没者墓苑で献花し、平和の礎及び沖縄県平和祈念資料館を視察いたしました。平和の礎の建設趣旨の説明を受ける中で、石碑に刻まれた沖縄戦等で亡くなられたすべての人々の氏名の圧倒的な数に胸を打たれました。また、平和祈念資料館では、沖縄戦の悲惨さや歴史的教訓、戦後の沖縄の人々が培ってきた平和を求める心がひしひしと伝わってまいりました。
クリントン大統領は、真っ先に沖縄の最後の激戦地、摩文仁の丘に平和の礎を訪れ、心こもった慰霊をされた後、一番大きな悲劇をこうむった沖縄の犠牲は二度と繰り返さぬ、沖縄における私たちの足跡を減らすため努力すると決意を強調され、感銘を受けました。