2021-06-10 第204回国会 参議院 内閣委員会、外交防衛委員会連合審査会 第1号
沖縄戦は、勝ち目のない、国体護持、本土防衛のための捨て石作戦でした。住民を巻き込んだ激しい地上戦により多くの住民が犠牲になっただけでなく、日本軍が県民をスパイ視して処刑する事件や強制集団死、いわゆる集団自決も起きました。
沖縄戦は、勝ち目のない、国体護持、本土防衛のための捨て石作戦でした。住民を巻き込んだ激しい地上戦により多くの住民が犠牲になっただけでなく、日本軍が県民をスパイ視して処刑する事件や強制集団死、いわゆる集団自決も起きました。
本土防衛の捨て石作戦として唯一地上戦となった沖縄戦が行われたように、台湾有事に日本が軍事的に関与することは、すなわち本土と米国や台湾とのつながりを優先して沖縄県民を切り捨てることにつながることを是非想像していただきたいと思います。 戦時国際法について、一般論としてお聞きします。
本土決戦を遅らせる目的の捨て石作戦で住民を巻き込んだ悲惨な地上戦となって、日米二十万人以上が犠牲になりました。一般住民は九万四千人が犠牲となって、その半数以上がこの南部で亡くなっております。 軍人軍属の死亡者のうち、沖縄県出身者は二万八千二百二十八人で、他の都府県出身者は六万五千九百八人なんです。これ、全国の問題でもあるんですね。沖縄県はまだ二千七百九十人分の遺骨が残っているとしております。
国体護持を至上命題とし、本土決戦を遅らせるための捨て石作戦で、日米合わせて二十万人以上が犠牲になりました。最も多かったのが住民の犠牲者で、約九万四千人です。その半数以上が南部で亡くなったものであります。なぜ南部で犠牲が集中したのか、当時の日本軍の責任が重大であります。 当時、学徒たちを動員して、ちょうど火災で焼失した首里城、首里城の地下には、第三十二軍司令部ごうが動員によって造られました。
そういうところで捨て石作戦という持久戦をやった。あれだけの被害が出たんです。そこから軍の強制が生まれたということを私は申し添えておきたいと思います。 それで、沖縄に上陸した米軍、これは一九四五年四月一日ですが、上陸した直後から直ちに現在の普天間飛行場の建設に着手をします。さらに、沖縄戦が終わった後も、県民を収容所に囲い込んだまま県内各地に米軍基地を建設します。
私たちは、沖縄戦というのは、やはり本土防衛のための捨て石作戦だったんですよ。もう負けることが明らかでした。そして、第三二守備軍が、今の戦力では持ちこたえられないという戦力増強も全部断ってしまいました。これはもう戦史の記録であります。したがって、当時の日本軍沖縄守備第三二軍、一木一草に至るまで戦力化する、根こそぎ動員ですよ。軍人と民間人との区別なしに戦場動員をする。
そして、疑うことができないもう一つは、沖縄戦は国体護持のための捨て石作戦であった、これはもうだれもが認めておるところであります。 今、ガイドライン関連法に基づく新たな日米軍事同盟の強化によって、沖縄が安全保障の捨て石にされようとしております。あの二十万余のとうとい命を奪った悲惨な沖縄戦と、それに続く二十七年間のアメリカの軍事支配を私は生きてまいりました。
○照屋寛徳君 私は、くどいかもしれませんが、五十四年前の沖縄戦の悲劇はまさに国体護持の捨て石作戦をとった結果、すなわち当時の日本政府の人道に反する、人の道に反する行為の結果であった。さらに、沖縄は日本の独立と引きかえに二十七年間の長い間アメリカの軍事支配下に放置された、これはまさに政府の人の道に反する行為の結果だと。そして、戦後五十三年余り日本の安全保障の犠牲と負担を沖縄は強いられてきた。