2021-04-23 第204回国会 衆議院 外務委員会 第10号
今月、四月十八日は、シベリア抑留死亡者の埋葬地保存や遺骨収集等について、一九九一年、ゴルバチョフ当時のソ連大統領が来日した際に締結した日ソ共同声明、そして捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定からちょうど三十年でもございました。
今月、四月十八日は、シベリア抑留死亡者の埋葬地保存や遺骨収集等について、一九九一年、ゴルバチョフ当時のソ連大統領が来日した際に締結した日ソ共同声明、そして捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定からちょうど三十年でもございました。
カリモフという人は、基本的に、初めて私が行った閣僚だということで、大統領とも会うことになったのがもう十何年前ですけれども、子供のときに日本人捕虜収容所に毎週末母親に連れていかれた、ヤギの乳を届けに行った、母親が私に言ったせりふは毎回一つとして違ったことはない、同じことしか言わなかった、せがれ御覧、あの日本人の兵隊さんを、ロシアの兵隊さんが見ていなくても働く、おまえも大きくなったら人が見ていなくてでも
武蔵、西川両参考人にお伺いをいたしますが、私は一九四五年の七月にサイパン島のアメリカ軍の捕虜収容所で生まれました。その後、一歳のときに沖縄に引き揚げて、以来今日まで、基地の島、沖縄で生きておりますが、沖縄も、七十年前に大変に悲惨な沖縄戦がございました。
子供のとき、毎週末、日本人捕虜収容所に連れていかれた。御存じかと思いますが、四五年から四六年にかけて、シベリアからウズベキスタンに二万五千人捕虜が移送されております。そのことを言っておられるんだと思いますが、その捕虜収容所に連れていかれた。母親が私に言ったせりふは毎週末同じだった。
○照屋委員 私は昭和二十年にサイパン島のアメリカ軍の捕虜収容所で生まれました。捕虜が産んだ捕虜であります。私は戦争責任に時効はないと考えております。六十七年前の悲惨な沖縄戦における不発弾処理と戦没者の遺骨収集は、今なお沖縄の戦後処理問題における大きな課題であります。
福岡県水巻町には、さきの大戦時のオランダ人捕虜収容所がありました。当時の悲しい出来事の結果、関係者等に非常に大きな心のしこりが残っています。外務省においても、そういう友好を強化すべく、当時の関係者を日本に招聘する取組の中で、JIN、SAKURA会あるいは戦争被害者の会の関係者の方々が日本を訪れるスケジュールの中でまずは福岡県の水巻町を訪れています。
沖縄はさきの大戦で国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦を体験し、そして、その地上戦のときに上陸した米軍は住民を捕虜収容所に強制収容し、その間に軍用地、民有地を問わず、基地建設に着手いたしました。住民が収容所から帰ってきたら、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変えられていたのであります。
沖縄の広大な米軍基地は、去った戦争で沖縄に上陸した米軍が住民を捕虜収容所に収容し、そして、その住民がいない間に、軍用地、民用地を問わず基地建設に着手して形成されたものであります。住民が収容所から帰ってきて、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変えられていた。これが、伊波市長がいつも語る普天間基地の形成の歴史だと私たちも伺ってまいりました。
私もちょっとこの点について二、三お伺いしておきたいわけなんですが、御案内のとおり、日本といわゆるソ連との間、旧ソ連ですね、一九九一年に日ソ間で、捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定というのが結ばれております。これは今から十八年前です。
皆さんのお手元に、このたびアメリカの公文書館でフィリピンのレイテ島を初めとして捕虜収容所におられた皆さんの六千名のリストが見つかったという東京新聞の二月二日付の報道を御紹介してございますが、実は、この間、我が国における遺骨収集は、戦後六十四年もたっておりますことから、極めて得られる情報が少なくなってきております。
その後、先日来日したフォール卿によりますと、その後、マッカサルの捕虜収容所に収容され、その後、セレベス島東岸に移され、そこで終戦を迎えたということでございます。
これだけの莫大な資料であるわけですけれども、これを読んでみると、しかもこの④ページを見てみますと、編さん委員会には当時の鉱山に関係していた方々がたくさん入っておられるけれども、この捕虜収容所については一切記載がない。ところが、年表を、⑤ページを見ていただきますと、九州のほかの炭鉱には捕虜収容所があったということが、ほかの炭鉱、三つ、四つ、五つぐらいのところには書いてあるんですね。
○照屋委員 大臣に私は幾度となく言っておりますが、私自身は、昭和二十年、アメリカ軍のサイパンにおける捕虜収容所で生まれました。捕虜が産んだ捕虜であります。ところが、沖縄に生まれた私の同級生で一番悲惨なのは、墓の中で生まれた、あるいはガマ、自然ごう、岩陰、避難先のヤギ小屋で生まれた者などいっぱいおるんです。これが沖縄戦の実相なんですね。
○参考人(元島和男君) 私たちは、捕虜収容所の中でまず一番困りましたのは紙がソ連には全くなかったということ、大便に行ってもふく紙がなかったんです。そして、便所がみんな外便所。吹雪の中で外の便所に用足しに行って帰ってきたらがたがたがたがた震えている。また、食事がおかゆであり、実のない水と油と塩のスープです。腹が減っているからそれを飲む。冷えるもんですからまた行く。夜寝る間もありませんでした。
○吉川春子君 一九九一年には日ソ協定が調印され、捕虜収容所に収容された者に係る問題を速やかに処理するというふうになったわけですけれども、二〇〇五年三月、ロシアから、病弱のため入ソ後、旧満州、北朝鮮に移送された方々の名簿が入手できたわけですね。その名簿の数と身元が確認できた数は何名ですか。また、身元確認は何名の職員でやっておられますか。数字を報告してください。
実は、私の死んだ両親もテニアンに出稼ぎに行き、サイパンで敗戦を迎え、私自身、敗戦後、米軍の捕虜収容所で生まれました。捕虜が産んだ捕虜であります。私もテニアンにある「沖縄の塔」に慰霊参拝をしたことがありますが、この事件について外務省として把握している事実関係及びいかなる外交的な対応をとるのか、お答えください。
今御指摘のありましたのは、一九九一年の四月の十八日、ゴルバチョフ大統領訪日時に、捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソビエト、当時はソビエトでございますんで、ソビエト社会主義共和国連邦政府との間の協定というお話、御指摘の点だと思っております。
それで、私が、国会中に、実はオーストラリアのニューサウスウェールズ州にあるカウラというところから招待を受けて、国会中で行けなかったんですけれども、捕虜収容所がありまして、そして、そこにちょうど千五百人ぐらいの捕虜収容所、日本人の収容所があって、ちょうど六十年、八月の三日、四日でしょうか、一年前に脱走して、そして五百人近い人が銃殺をされて、そういう状況の中で、カウラ市民が今そのお墓をちゃんと管理し、守
そして、第一次世界大戦、多くの約五千人を超えるドイツ軍の捕虜がこの四国、特に八十八か所の第一番の札所である霊山寺というお寺がございますけれども、そこのそばに板東捕虜収容所というのがありまして、ここの所長さんというのが戊辰戦争で敗れました会津の人でありまして、その後に下北半島で苦労をし、それで第五期の陸士だったと思いますけれども、大変立派な所長さんの下で、実は鳴門市を中心としたあの辺りにはドイツパンがすごく
これも第一次大戦中に日本軍がドイツの抑留、租借地であった青島を、チントーというんですかね、青島を占領し、約四千七百名のドイツ兵捕虜が日本各地の捕虜収容所に送られたと。そのドイツ兵捕虜は遠方からの客人として日本国民から温かくが迎えられて、捕虜たちを乗せた列車が各収容所所在の駅に到着すると、当時の日本国民が多数で歓迎したと記録に残っております。
ジュネーブ第三条約及び本法案に基づき、赤十字国際関係委員会の代表者等が自衛隊の捕虜収容施設を訪問し、捕虜収容所の職員の立会いなしに捕虜に面会することができる等、捕虜の処遇が適正に行われていることは外部からも十分チェック可能であるということでございますが、国内法的にもそのような仕組みを整えまして、石垣島事件のような、そのようなこと、いかな極限状況にあるとはいえ、やはりそういうことがないようにきちんとしたことを
第三に、捕虜等の抑留その他の業務を行うため、陸海空三自衛隊の共同の機関として、臨時に捕虜収容所を設置できることとするとともに、捕虜等の人道的な待遇を確保するため、ジュネーヴ第三条約その他の国際人道法の規定に従って、必要な食糧、衣服等の提供に係る規定、敵国衛生要員による医療活動の実施その他の衛生、医療に係る規定、捕虜等と外部の通信に関する規定及び捕虜等に対する金銭給付に係る規定その他所要の規定を整備するとともに
第三に、臨時に捕虜収容所を設置できることとし、ジュネーヴ第三条約その他の国際人道法の規定に従って、食糧、衣服、衛生、医療の提供等の規定を整備するとともに、捕虜等に対する懲戒制度を整備するものであります。 第四に、防衛庁に捕虜資格認定等審査会を臨時に設けるとともに、その審理手続等所要の規定を設けるものであります。 第五に、捕虜等の抑留の終了に必要な規定を設けるものであります。