1979-03-01 第87回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第3号
云々とありまして、「昭和五十四年二月十九日、私は浦賀分会の拡大闘争委員会の報告をするべく十二時五分から始めました。十二時十五分頃より平常私達の控所のある二階では見かけない、他の職制達が多数二階に集まって来たので、何があるのかなと気にしながら報告を続け、十二時二十分頃終ったので昼食にかかりました。
云々とありまして、「昭和五十四年二月十九日、私は浦賀分会の拡大闘争委員会の報告をするべく十二時五分から始めました。十二時十五分頃より平常私達の控所のある二階では見かけない、他の職制達が多数二階に集まって来たので、何があるのかなと気にしながら報告を続け、十二時二十分頃終ったので昼食にかかりました。
一例を申上げれば、西日本新聞の二月の十五日の朝刊に、「統一戦線の現状」と、こういう見出しで、「争議における例、昨年末国鉄の休暇闘争のさい日共委員長ら二十名がピケに加わつたり地本拡大闘争委員会に日共県委員らが出席し闘争継続を主張したりした。また三井三池炭鉱争議で、デモ、集会、すわり込み、ピヶ訓練に日共が指導参加した。」こういうことを発表されている。
それから三十日の朝五時でストライキ時間が切れますので、二十九日の夕方拡大闘争委員会を開きまして、続行か打切りかという二つの問題で討議しましたところ、大多数をもつてスト続行ということに決定されたとたん、夕方の八時ごろになりますと、労管からいわゆるロック・アウトの作業場閉止という通知が出されたのであります。
二十一日には中央闘争委員会、拡大闘争委員会が結成され、地域共同闘争が決定されましたが、二十四日には所長初め部課長九名を軟禁し、百数十人で取囲んで団体交渉を迫り、部課長は翌日午前六時まで、所長は実に午後三時に至るまでこのカン詰状態に置かれたのであります。