2021-03-30 第204回国会 参議院 国土交通委員会 第7号
そして、駅北の拠点開発事業として、会議場あるいは展示イベント施設、民間のホテルから成る総合コンベンション施設も建設が完了しているというものであります。
そして、駅北の拠点開発事業として、会議場あるいは展示イベント施設、民間のホテルから成る総合コンベンション施設も建設が完了しているというものであります。
国土計画の歴史をひもといても、拠点開発とあわせてインパクトが大きいのが交通ネットワークの整備でありますけれども、ただ、これはやはり地元サイドが、このメリットをどう生かすかという、その方策をしっかりと議論ができるかということがこの成果を左右するものだと思っています。
その過程の中で、一番最初に考えられた拠点開発方式でありますとかプロジェクト方式、そういうものは、何よりもまず日本のベルト地帯というところに目を向けて、それが、まずそこを充実させることが日本全体の発展につながると、こういう考え方で始まったと思います。それはある程度、これは統計データ等からも見て取れると思いますけれども、一定の成功があったというふうに思います。
全総、新全総、三全総、四全総、拠点開発、大規模開発プロジェクト、広域生活圏、交通ネットワーク、田中角栄さんの日本列島改造論でしょう、竹下登さんのふるさと創生なんですよ。全部一億円ばらまいた。ばらまいたけれども、自分で考えろというんでいいんですよ。それは、結果、温泉を掘ったり、金塊を買ったのが多かったんだけれども、それでもいいんですよ。
全総、新全総、第三次全総、第四次全総、拠点開発、大規模プロジェクト、あるいは広域生活圏何とか、田中角栄さんの日本列島改造論もそうだし、竹下さんのふるさと創生もそうなんですよ。しかし、結果として、いろんなお金を名目でつぎ込みながら、地方はなだらかに衰退してきたんですよ。その反省と総括が要るんじゃないですか。総理、どうですか。
そして、そういう意味でいきますと、最初の一全総のときには拠点開発方式という言葉が使われておりますし、これもそういう意味では似た拠点という言葉が使われておりますが、これは新産業都市、工業整備特別地域といったようなものに結び付いていった概念でございますけれども、元々はやはり一般的な名詞としての拠点というものを分かりやすい表現として拠点開発方式という用語にしたということではなかろうかと存じます。
一方で、先ほども申し上げましたけれども、こういった計画を受ける形で、例えば、企業立地補助や国際的な医療拠点、開発拠点等の整備など、福島原子力災害等の復興基金の造成を既に行っております。それから、再生可能エネルギーの研究開発及び関連施設の整備などの関連予算を含め、総額五千三百四十億円程度の予算措置を第三次補正予算なんかでも措置してございます。
そういう中で、やはり私は、国土総合開発法に基づいて、いわゆる拠点開発方式、新産・工特、新産業都市・工業整備特別地域に関する施策がいろいろと強力に展開されまして、諸般の基盤整備がなされ、それによって昭和三十年代の世界が目をみはるようなすさまじい高度成長を遂げたということなんですね。
二番目に、面のまちづくりというよりも、大規模商業施設あるいは大規模な業務ビルの拠点開発ではないか、それで終わるのではないかという危惧がございました。 三番目に、あのとき扇大臣でありましたけれども、国際競争力という言葉が何度も何度も出てまいりまして、これは国際競争に勝つための拠点整備のような感じが非常に強くいたしました。
この計画は、全国各地に工業団地を造成するなどいたしまして工業の地方分散を図る、いわゆる拠点開発構想を推進することによりまして地域間の均衡ある発展を目指したものでございます。 また、次いで、高度成長経済期に入りまして、昭和四十四年に二つ目の新全総が策定されました。
まず、拠点開発の意義はなくなりました。どこかに拠点開発したからといって、そこに地域振興が起こるというふうなことというのは余り考えられない。今、そういうふうなのをやろうとしても、日本の地方に立地しようなんという企業もほとんどないわけであります。大概は、開発途上国や中国に投資しようということになっていくわけであります。
三十七年は拠点開発構想ということで、それぞれの四大工業地帯以外のところの地域を指定しまして、拠点開発ということをやりました。四十四年は、今度はもうどこでもいいんだ、どこでも開発可能性があるんだということで、大規模プロジェクト構想ということでやりました。
例えば、実はこの「総合的点検」では、自立圏連帯型の国土をつくるんだということを言っておりますけれども、これは恐らく、五全総以来の多軸型の国土であるとか、それ以前の多極分散型というものをもうちょっとひねってみたとかいうレベルの話のように私には読めるわけですが、実は、これをやる上でも、結局、新しい時代にふさわしい拠点開発をするのだというようなことが書かれている。
まず最初の全総で一全総でございますが、これは拠点開発構想というものを掲げております。このことによりまして、製造業立地の地方分散というのが一定程度進んだ、この点についてはかなり御評価をいただけるんじゃないか。田舎の方でもそういう工場に勤めるというふうな暮らしができ始めたというのは、この成果なんではないかと思います。
そして、このコンビによりましてとられました方式は、いわゆる拠点開発方式というものでございました。いわゆる新産・工特、すなわち新産業都市と工業整備特別地域、これをそれぞれ全国に新産が十五地域、そして工特が六地域指定をされまして、先ほど申しましたような傾斜生産方式の重化学工業主体の開発の考え方のもとで、太平洋ベルト地帯を中心とした拠点開発というものに取り組んだわけでございます。
昭和三十七年に最初の一全総が制定されたわけでありますが、そこでは、国民所得倍増計画、ちょっと中間省略させていただきますが、それに即して、都市の過大化の防止と地域格差の縮小を配慮しながら、我が国に賦存する自然資源の有効な利用及び資本、労働、技術等諸資源の適切な地域配分を通じて、地域間の均衡ある発展を図ることを目標として、拠点開発方式、こういうのを整備手法として行っておりました。
○尾見政府参考人 今先生御指摘の所得倍増計画が最初の全総計画の投資額の中にどういうふうに反映されたかというお尋ねでございますけれども、大変申しわけないんですけれども、二番目の全総以降は投資額についての数字があるわけでございますが、最初の全総計画については、所得倍増計画との関係は先ほど申しましたような形で、それをベースにして拠点開発方式を進めていく、そういうことについての詳細はございますけれども、数字的
そういう観点から見ますと、私懸念されますのはむしろ東京でございまして、東京でまた近郊から二十三区内に、特に高齢者の方のまた再流入が進んでいますけれども、そういう中で汐留だとか新しい地域の開発が進んでいますけれども、これというのは、結局再開発ではございますけれども、果たしてどこまで拠点開発とかまちづくりという概念があるんだろうかという意味では非常に疑問でございまして、何の脈絡もなく地域の中でビルが建っていくと
これに基づいて一万一千五百二十キロメートルが定めておられるところでありますし、また、この整備計画の九千三百四十二キロメートルにおきましては国幹審の議を経て定められているのでありまして、この整備計画を前提に、私どもは、インターチェンジへのアクセス道路等の整備や物流拠点開発、宅地開発など各種の開発計画等が現に進められております。
また、整備計画区間は四十二都道府県に関連してございまして、この都道府県におきましてはインターチェンジのアクセス道路の整備あるいは各種開発計画等が進められておりまして、進行中の物流拠点開発、宅地開発などの地域開発プロジェクトは関連するものだけで全国で百十一か所、これが整備されますと十万人の新規雇用が創出されるのではないかというような効果が見込まれておりますが、こういう程度に及んでおります。
この計画というのは、もともとはベイエリア法に基づく尼崎臨海西部再開発構想というのがあって、一九九五年の阪神大震災の直後に、兵庫県と尼崎市が神戸製鋼の跡地などを五百二十五億円で買い取って、震災復興臨海部西部拠点開発事業というふうにしたわけです。これは、七年間で、五十五・四ヘクタールで復興住宅など二千戸をつくるというニュータウン計画だったんです。
計画されました地域のうち拠点開発地区につきましては、お話がありましたように、震災直後に、復興住宅を建設するということで事業を進めるという決定をしていたようでございますけれども、決定の変更につきましては、この計画が破綻したということではなくて、地元公共団体におかれまして、いろいろな情勢の変化を受けて判断されたというふうに私どもは聞いております。
ちなみに、新産・工特の指定は、昭和三十七年に決定されました全国総合開発計画の拠点開発構想を具体化したものでございまして、これにより、過密過疎に歯どめをかけ、国土の均衡発展を図ろうとしたものであります。主として重厚長大型の産業を念頭に、昭和三十九年から計二十一地区が指定されました。
昔ありましたよね、拠点開発だとか一点豪華主義だとか。ややそういう感じを私は受けましたが、そこだけに投資というわけにいきませんね、やっぱり。