1964-04-28 第46回国会 衆議院 本会議 第27号
昭和七年五月、齋藤内閣成るや、永井拓務大臣のもとで、政務次官として二年有余にわたり拓務行政に参画して、その力量を発揮され、行政手腕においてもぬきんでた才能を披瀝されたのであります。 しかし、長年にわたるあなたの政治生活の中にあって特筆されるべきは、戦後の民主憲法のもとでの国権の最高機関たる本院の議長に在職されたことでありましょう。
昭和七年五月、齋藤内閣成るや、永井拓務大臣のもとで、政務次官として二年有余にわたり拓務行政に参画して、その力量を発揮され、行政手腕においてもぬきんでた才能を披瀝されたのであります。 しかし、長年にわたるあなたの政治生活の中にあって特筆されるべきは、戦後の民主憲法のもとでの国権の最高機関たる本院の議長に在職されたことでありましょう。
お手元の履歴書で御承知のように、大橋君は大正七年七月外務省に入り、同年十月領事官補に任官以来、長く外交官として勤務し、その間、米国、中華民国、満州国に在駐したほか、本省において拓務行政に従事し、また人口食糧問題調査会幹事として人口食糧問題にも携わったものでありますが、昭和七年六月満州国外交部次長等を経て同国外務局長官となった後、再び外務省に入り、同十五年十一月外務次官に任ぜられ、翌十六年七月退官し、
お手元の履歴書で御承知のように、大橋君は、大正七年十月領事官補に任官以来、長く外交官として勤務せられ、その間米国、中華民国、満州国に在勤したほか、本省において拓務行政に従事し、また人口食糧問題調査会幹事として人口問題にも携わり、昭和七年六月満州国外交部次長、次いで同国外務局長官となり、同十五年十一月外務次官に任ぜられました。
或いは青年諸君を全国の各村から集めてやつたのかという当時の拓務行政と農林行政との合致点についての御報告を願いたいと思います。