2015-04-23 第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第10号
○政府特別補佐人(横畠裕介君) ちょっとややお尋ねの趣旨が理解し難いところがあるのでございますけれども、我が国が個別的自衛権をそもそも発動できるのかというときの議論に遡る感じがするのでございますけれども、我が国の憲法の平和主義というのはいわゆる無抵抗主義ではないんだというところはもう確認されているところであろうかと思います。
○政府特別補佐人(横畠裕介君) ちょっとややお尋ねの趣旨が理解し難いところがあるのでございますけれども、我が国が個別的自衛権をそもそも発動できるのかというときの議論に遡る感じがするのでございますけれども、我が国の憲法の平和主義というのはいわゆる無抵抗主義ではないんだというところはもう確認されているところであろうかと思います。
そうなりますと、一、全くの非暴力抵抗主義でいくのか、二、万が一の場合に国民の生命財産を守るための必要最小限度の自衛力を保持することを憲法上明記しておくべきなのか、三、そのためには、二項を書き直すか、二項を削除でいいのか、それとも三項を追加する形で確認するのが適切なのかといった、わかりやすい議論になっていくことが必要ではないかと思います。
だから、詰めていけばどうなるんですか、こう聞いたら、いわば非暴力抵抗主義というかそういうことを、現実にその言葉をおっしゃいました。 要するに、日本共産党の方に聞きたかったのは、二年前に、必要なときは自衛隊を使うということを彼らは決めているわけですね。それに対して、今は使わないときと決めておられるのかどうか、その辺がよくわからないということを聞きたかったんですけれども。
先ほど、インドのマハトマ・ガンジーの無抵抗主義を例に出してお話しされました。私も、インドが独立するときに、あの強力なイギリスを相手にしていろいろなことをするよりも、さぞかしつらかったろうと思うけれども、あのやり方は非常によかったと、ガンジーに対しては尊敬をいたしております。
ガンジーの無抵抗主義に賛同し、「独立国の要件は三つある。兵備、富、道義だ。このうち第一にいらないものは兵備だ。つぎは富、道義さえ行われれば、国は貧しくとも平和が保てる」と。 こういうふうないわばベテランの財界人の知恵みたいなものを、どうして小泉純一郎というふうな人が受け継ぐことができないのか。
侵略されても黙って無抵抗主義でいったらいいのかということになると、必ずしもそうではないだろうと思っておりますし、さればとて一歩たりとも入れるなという考え方でやることもなかなか現実的ではない。やはりそういう予算があったらほかの方に転用して、ほかの意味の国力を上げるということで日本の安全保障をやることも可能なのではないかというふうに考えているという意味で、それだけを書かせていただいたわけでございます。
つまり、無抵抗主義で我々は何を得たかといったら、結局、長くイギリスの統治に屈しただけじゃないか。だから、どちらに人間性を感じるかは別にしても、いずれにしろ、その人が、むしろ我々は大挙して反乱してイギリスに抗すべきだった、現に日本が戦争を起こした後、我々はやって勝てた、何であの試みをあの当時できなかったかという言い方をしていましたが、これはこれなりにインド人の一つの認識なんでしょう。
同時に、この国は、ガンジーさんの無抵抗主義も大変大事なのでありますが、これを基本にしつつも、核廃絶はそれで達成できないわけですから、人類の生存と地球の平和、世界環境の確立という意味において、これは各政党を超えて、日本の政党がこれに異論を唱えていくはずはないのだと思うのです。
それがまた、そういうお考え方、思想、哲学というものが、ある意味におけるガンジーの哲学、すなわち、文明の本質は欲望を捨て去ることである――私もガンジーの無抵抗主義というものには大変心深く打たれまして、青春時代に何回となく本も読み返したものでございます。
しかし、人間としての誇りを失うことなくこのような徹底した無抵抗主義の倫理を実践できるのは、イエスのような宗教的天才に限られております。普通の人間にとって、攻撃されても戦おうとしないのはひきょうな憶病者であります。そのようなひきょう者、憶病者が社会の多数を占めたら、その社会は無法者の天下となってしまいます。
でありますから、ガンジーのように無抵抗主義というようなものもあり得るわけでございますし、西欧においても良心的兵役拒否、こういうものもあると思うのでございます。私は、個人個人がフリーに話したときはそんな考え方が出てくるのではないかなと思う一方では、俗に戦時国際法と言われているものもございます。
断っておきますが、これは決して無抵抗主義とか降伏を意味するものではありません。侵略によってわが国民が奴隷状態に置かれることは、それがたとえ一時的なものであっても許されるべきことではありませんし、われわれの祖先が営々として築き上げたとうとい文化を葬り去られることもあってはならないのであります。
同様に、その段階における無抵抗主義というものを一応表明されたのですけれども、これは現行の法制下の問題であって、将来はこういう問題についてはなお検討しなければならぬという意味だと思うのです。と申しますのは、八月十七日の参議院の内閣委員会における答弁で、いわゆる栗栖発言に関連して、法的な穴があるのじゃないかという問題に対して長官は、検討に値する問題である、必要なら立法手当も考えなければならぬ。
○大内委員 そういたしますと、必ずしも一切無抵抗主義ではない、そういう問題も含めてどう対処するかは今後の検討課題だ。そうしますと、十月三日の御答弁はちょっと言葉が足りませんね。
無抵抗主義というか、全く事なかれ主義にいっておる。自分が文部大臣になった以上は、このことだけは何とかしてやろうという親心があるならば、こういうていたらくはないはずです。すなおに超過勤務手当を出すように——それは超過勤務手当をもらう人もあるかもしれぬ、あるいはもらわない人もあるかもしれぬ。それは超過勤務の態様によっていろいろ違う。勤務の態様というものはそういうとり方をしなければいかぬ。
それでも無抵抗主義で万事円満にいけばいい、こういうお考えですね。えらい意地の悪い質問ですけれども、しかし東大がこういうような疑惑を受けておるわけです。きょうは私も時間がないですから、大臣もおられませんし、先がた、大臣も聞き捨てなさらぬとおっしゃいましたから、私も聞き捨てならぬ立場で、このあと経理問題をやりたいと思いますが、それならそれでけっこうです。
こういうことで「徹している」ということならば、これは無抵抗主義の平和論ではないということはわかっておっても、それに対処すべき何らかの処置というものがあるのではないか。
もちろん、この総理の「平和に徹する」ということは、無抵抗主義によるところの平和論でないとは私どもも受けとめております。しかし、実際にアジアにおける今日の姿というものを解決する具体的な姿勢というものや具体的な提案というものがなければ、私どもは実は一体「平和に徹する」という姿勢として何をとらえておられるのかについてきわめてとらえにくいわけであります。
社会党の方々も、日本は世界平和に貢献せよと始終言われますが、その雰囲気は、むしろ日本の立場において積極的に貢献するというのではなく、ある意味における敗戦主義的な、無抵抗主義的な感じ、私はそういうふうに感じるのでございまするが、日本が大国であるならば、世界平和のため積極的な貢献をなし、また必要に応じて自己犠牲を払うべきであります。
われわれは、いわゆる無防備、無抵抗主義の上に立つ逃避的孤立主義者でもなければ、また中立の名において共産主義陣営の世界戦略の一環に利用される、えせ中立主義者の立場に立つものでもありません。独立国として自衛権を持つことは当然の理であると考えます。従って、主権国家が自衛のための最小限の措置をとることは疑う余地のないことだと考えます。
われわれは、いわゆる無防備無抵抗主義の上に立つ逃避的孤立主義者でもなければ、また、中立の名において、巧みに共産主義陣営の世界侵略の一環に利用されるえせ中立主義の立場に立つものでもありません。独立国として自衛権を持つことは当然の理であると考えます。従って、主権国家が自衛のための最小限の措置をとることは避け得ざることだと考えます。
私も、もとクリスチャンでありましたが、無抵抗主義がきらいでキリスト教徒を脱却いたしました。大臣が向こうへ行かれた以上は、向こうからも親善使節として日本に大臣級の人、それ以上の人が来てもらうように約束を取りつけておいでになっていただきたい。これを希望いたしまして、私の質問を終わります。