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2件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1957-05-16 第26回国会 衆議院 文教委員会 第26号

そこに行きますときには扶輪学校という——華北交通関係学校扶輪学校という名前なんですが、それが大がい内地教職にあった人が行きまして、やや宣撫工作的な仕事をやったんです。しかしその人たちは終戦になると同時に国内に帰って参りまして、また教職についていますが、その扶輪学校に奉職した期間が、やはりこの人たちと同じように、今恩給年限等にその年間を認められておらない。

小林信一

1957-02-19 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号

灘北交通——これは半官半民の形でしょうが、実際は全部官が経営したような形になっていて、満鉄と同じような性格ですが、あの当時これが扶輪学校なるものを置いたわけなんです。これは主として当時の宣撫工作仕事を担当されておったようなんですが、満鉄において経営されておる小学校と同じような性格なんですが、そこまでいかないうちに戦争が終ってしまったわけなんです。

小林信一

1957-02-19 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号

戦争当時に多かったのですが、華北交通ですか、あれが経営しておった扶輪学校というのがあるのですが、これは満鉄が経営した学校と同じような性格なんです。しかし、ここへ奉職した先生は、外務省で派遣をした形でなくて、一会社が何ら政府と関係なく先生を採用したというような形に扱われておるのです。

小林信一

1957-02-19 第26回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号

その扶輪学校というのに行った者も、満鉄の方から派遣された者は満鉄の経営の学校にいたと同じように待遇されて、何ら恩給の上に空白がないのです。ところが、内地の方から、当時の宣撫工作というふうな形で、多少決死的なもので、勧誘されたというか、徴用された形で出た人たちは、その扶輪学校に行って、ほんとうに第一線の、教育の仕事といっても宣撫工作的なものが多いのだそうです。

小林信一

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