2020-11-06 第203回国会 参議院 予算委員会 第2号
それから、二〇〇八年一月の財団法人市川房枝記念会出版部発行の「女性展望」に、上川陽子さん、私も選択的夫婦別姓については賛成で、そのために議員として活動してきました。政治家としての信念はと聞かれて、言行一致、つまり、言ったことには自分で責任を持つことが大切だと考えていますと。 私、こういう信念をお持ちである政治家であれば、法務大臣になったらば、やっぱりそのために全力を挙げると。
それから、二〇〇八年一月の財団法人市川房枝記念会出版部発行の「女性展望」に、上川陽子さん、私も選択的夫婦別姓については賛成で、そのために議員として活動してきました。政治家としての信念はと聞かれて、言行一致、つまり、言ったことには自分で責任を持つことが大切だと考えていますと。 私、こういう信念をお持ちである政治家であれば、法務大臣になったらば、やっぱりそのために全力を挙げると。
二〇〇七年には、福田内閣の少子化対策・男女共同参画大臣として、市川房枝記念会の「女性展望」二〇〇八年一月号にインタビューに答えられまして、私も選択的夫婦別姓については賛成で、そのために議員として活動してきました、それぞれの時代にふさわしい形で法律を見直していかなければならないと思っていますというふうにお答えになっておられます。
菅総理、あなたが師とも仰いだ市川房枝さんは、当時、池田首相にこういう質問をしております。 うそを言わなくてはならない政治界、うそで固まっている政治界だとしましたならば、国民の信頼が得られないことは当然であります、私は、機会あるごとに国民の方々にこのことをお伝えして、選挙の際には主権者としてうそを言わない政治家を出すように訴えてまいりました。
私にとっては、政治と金の問題は、最初に政治運動といいましょうか選挙のお手伝いをした市川房枝先生のときからの一つの課題でありまして、そういう点では、その問題が政治をゆがめないようにということでやってきたつもりであります。
もちろん表紙を変えただけじゃ駄目なんですけれども、表紙を変えないことによって中身が駄目になっているというのが今の政治状況だということを御認識をいただきたいということと、これは最後に、私も常々いろんな局面に立ったときに自分が仕えた代議士の顔も思い浮かべて自分一人で考えるときがありますけれども、総理、総理の政治的な師匠である市川房枝さんがこの場におられたら、多分総理に対して総理を続けて頑張れという言葉は
○服部委員 菅総理はクリーンな政治を訴えてこられた市川房枝さんが自分の原点だということを午前中もおっしゃっていたと思うんですけれども、菅さんに期待していた国民は、今、菅さん、一体何をやっとんねんというふうに思っている人が多いんですよ。だから、菅さんこそ、菅さんらしいことをぜひやるべきではないかというふうに思うんですね。
○菅内閣総理大臣 先日、「八十七歳の青春」という市川房枝先生の亡くなられて三十年を記念しての上映会がありまして、私も顔を出させていただきました。 私が選挙というものに初めて深くかかわるようになったのは、一九七四年の市川房枝先生の参議院全国区の選挙でありました。市川先生は、従来から理想選挙という言葉を使っておられました。
私も、先ほど三十年、四十年と申し上げたのは、今御指摘にあった、市川房枝先生の選挙の直後に、市川さんが最初に経団連に乗り込んだテーマが企業献金の禁止でありまして、一たんは、当時の土光会長が経団連が扱う企業献金、自民党への献金はやめるということを約束し、そこからまたいろいろな展開が始まったことを私もよく覚えております。
特にこの政治の社会、私も最初に選挙の応援をさせていただいたのが亡くなられた市川房枝先生でありますけれども、もっと多くの女性が国会にも地方議会にも出てきていただきたいと。党としても女性の候補者の拡大に取り組んでまいりたい、このように考えております。 残余の質問については、関係大臣から答弁をさせたいと思います。(拍手) 〔国務大臣与謝野馨君登壇、拍手〕
もう三十年以上前になりますけれども、亡くなられました市川房枝さんの選挙の折に、個人献金だけで千数百万円のお金が集まりまして、その内側でやったことが私の初めての選挙をお手伝いした中でありました。 しかし、残念ながらといいますか、私も努力をし、かなりの割合は個人献金にお願いしておりますけれども、必ずしもそれが一般的に広がってこない。
これで、あなたが青春の思い出として演説の中で誇らしく触れられた市川房枝さんに顔を向けられないのではありませんか。前内閣の一員として責任を痛感するというのであれば、その責任をもっと具体的な言動で示すべく、明確に御答弁ください。 次に、荒井国家戦略担当大臣の事務所費問題について伺います。
私の政治活動は、今をさかのぼる三十年余り前、参議院議員選挙に立候補された故市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年がジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました。そして当選直後、市川先生は青島幸男さんとともに経団連の土光会長を訪ね、経団連による企業献金のあっせんを中止する約束を取り付けたのです。
私の政治活動は、今をさかのぼること三十年余り、参議院議員選挙に立候補された故市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年がジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました。
私が最初に選挙をお手伝いした市川房枝さんの選挙で千七百万ぐらいお金が集まりましたが、それは当時としては例外的な存在であって、一般的に個人献金の集まる政治家はほとんどおりませんでした。私も約三十年間余りずっといろいろ努力をしておりますけれども、残念ながらオバマ大統領の何百分の一程度しかなかなか集まらないんであります。
しかし、あなたは、やっぱり一番女性参政権を言われたあの市川房枝さんのところで秘書をされて一票の重みを分かっているはずだ。そういう中で、私がいろいろと問題を起こしたときにあなたは公然と、七万票足らずの票で何を言っているんだと。私はあれほど一票の重さを無視した発言はなかったなと。今でもそう思っていますか。
政治資金の問題については非常にクリーンにやられてきて、やはり市川房枝さんの精神を引き継がれているのは菅さんしかいないというふうに国民は思っているんだと思うんですね。 菅さんのホームページを見たんですけれども、後援会の規約のところにこんなふうに書いてありましたよ。
○菅国務大臣 松あきら議員の方から、三十年前に亡くなられた市川房枝先生の名前を挙げてそうした質問をいただいたものですから、私としては、三十年前あるいはその少し前からのおつき合いでしたけれども、当時はまだ今ほど政治資金規正法もしっかりしておりませんでしたし、あるいは資産公開もルールがありませんでした。さらには政党助成金もなくて、多くの資金は、自民党の場合は財界等から調達をされておりました。
松さんが、「菅副総理が政治の世界に飛び込まれたときに真っ先に師事をされ、終生清潔な政治の実現に尽力をされた、かの市川房枝さんは、政治家の金銭関係を清潔にするということが何よりも大事と主張されておられました。鳩山総理や小沢幹事長にまつわる不可解な政治と金の問題について、菅副総理の御見解をお聞きしたいと思います。」
菅副総理が政治の世界に飛び込まれたときに真っ先に師事をされ、終生清潔な政治の実現に尽力をされた、かの市川房枝さんは、政治家の金銭関係を清潔にするということが何よりも大事と主張されておられました。鳩山総理や小沢幹事長にまつわる不可解な政治と金の問題について、菅副総理の御見解をお聞きしたいと思います。 次に、経済情勢に対する認識についてお伺いをします。
○国務大臣(菅直人君) 松あきら議員から市川房枝先生のお名前を挙げられて、政治と金についての見解を求められました。 市川先生は本院に長く御在籍され、カンパとボランティアの選挙を実践されまして、私も一九七四年の選挙のお手伝いをしたことがこの政治の道に深くかかわるようになったきっかけになりました。
しかし、じゃ国会で全く議論がなかったかというと、実は、ここに市川房枝先生の肖像画がありますけれども、市川房枝先生が質問されるなど、年に一回ぐらいずつ国会で審議をされてきた経過があります。しかし、残念ながら、国民の関心を呼ぶところとはなりませんでした。また、それはまた無理もなかった面もあったかもしれません。
課税の公平性という観点から見ますと、これも、私、議事録を調べてみますと、時の大平総理と市川房枝参議院議員が議論されていたり、青島幸男参議院議員と竹下大蔵大臣が議論されていたり、この問題は何度も議論されておりますけれども、要は課税の公平性という観点の中ですと雑所得ということで、政治家であろうと政治家以外の方であろうと、同一ルールでやろうという考えで今まで来たんだろうと思います。
よく言われていますように、経済問題ですと木村禧八郎さんとか、あるいは国際外交問題ですと羽生三七さんとか、あるいは女性問題ですと、あるいは選挙の問題ですと市川房枝さんとか、論客がおりましたし。 それから、私なんかが非常に、当時は沖縄問題が最大のテーマでして、沖縄返還、これは沖縄問題の最後の何といいますか核心、核心部分というのはどういう形で沖縄が日本に返ってくるかと。
かつて、全国区制のころ、私たち女性や若者たちが市川房枝さんを私たちの代表として、カンパを出し合い、いわゆる手弁当で、「出たい人より出したい人を」を合い言葉に参議院に推し出したことがあります。現在の比例制度では、私たち有権者は、政党に所属させなければ、所属しなければ、自分たちが出したいと思う人を立候補させることができないのです。
それに対して女性が、本当に自分たちが、市民が主役の政治であるならば自分たちも主役になるのだと言って政治の場における男女の同権を追求し始めたのは、どう早く見ても一九七五年のメキシコ会議以降、いやどう早く見てもと言っては申しわけないですね、戦前の、市川房枝さんたちの戦前からの伝統があるのでそれを無視したら怒られちゃいますが、広く一般的に言われるようになったのはとりわけ一九九〇年代に入ってからであったかと