1955-06-03 第22回国会 衆議院 内閣委員会 第16号
昭和二十一年より二十八年までの間に、この戸沢地区内部の部落には約十五回直撃を食っておる状況であります。なお二十一年より二十八年までには農地あるいは部落中を合せると、砲弾の破片は四十個も落ちておる、こういう危険なる状態であります。 次には死亡及び負傷者の状況を申し上げてみたいと思います。昭和二十六年の六月、加藤謙三、中里幸子――小学校の学生さんですが、これは死亡しました。
昭和二十一年より二十八年までの間に、この戸沢地区内部の部落には約十五回直撃を食っておる状況であります。なお二十一年より二十八年までには農地あるいは部落中を合せると、砲弾の破片は四十個も落ちておる、こういう危険なる状態であります。 次には死亡及び負傷者の状況を申し上げてみたいと思います。昭和二十六年の六月、加藤謙三、中里幸子――小学校の学生さんですが、これは死亡しました。
そのほかに村民一般が入山権利を持つている官有地が、戸沢地区内に七百十町歩、大高根地区内約三百町歩くらいかと思われますが、官有地合せて千十町歩、民官有地合計千五百四十一町歩からの村民の生活基盤である広大なる面積を、演習用地として終戦直後、すなわち昭和二十一年十二月三十日から無条件にて砲座地の構築並びに県道修理、軍専用道路の開鑿等に着工されて、昭和三十二年の夏ごろより実弾射撃を開始したように記憶しております