1952-03-26 第13回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第11号
○中山委員 私の方に陳情が参つております件でございますが、今遺族に対していろいろ考慮が拂われております際に、戰時中軍を運ぶために使われた船員が、途中で船とともに運命をともにいたしまして、今日まで帰つて来ない、そうしてその人々の遺骨が何ら帰らないことはあたりまえであるけれども、何らの報道もない。
○中山委員 私の方に陳情が参つております件でございますが、今遺族に対していろいろ考慮が拂われております際に、戰時中軍を運ぶために使われた船員が、途中で船とともに運命をともにいたしまして、今日まで帰つて来ない、そうしてその人々の遺骨が何ら帰らないことはあたりまえであるけれども、何らの報道もない。
ただ何を申しましても、現在全国に病院、療養所等三百ほどの施設がございますが、中には戰時中、軍から引継いだようなものがございます。こういうものは戰争当時に建てました建物あるいはそれ以前の古い建物でございまして、今日から見ますと、早く手入れをしなければならぬものもあるいはあろうかと存じます。
これは業者と特別調達庁と軍との間にいわゆる建設協力会のようなもの、戰時中軍と国民の間につくつたと同じようなものをつくつて、その連中が飲んだり食つたりした分まで工事にぶつかけた、こういうことになると、私は非常な問題になると思う。だから、私は少くともそういう法的な措置によるよりも、特殊な状況において起つたものは、特殊な方法をもつて解決する意思はないか、こういうふうに考えております。
しかも終戰となるや軍は買收当時、不要の際はわれわれに最優先的に返還するとの言明にもかかわらず、これらの土地、建物は、該地に何の縁故、権益関係のなき者へ、戰時中軍に協力したる理由をもつて大半を配分してしまつたのであります。
次に五百二十三号第四港湾建設部の関係でございますが、これは本部職員の宿舎を新築、増築いたしまして、又本部の所要の自動車を購入いたしたり、そのほか通信装置を設備するなど、港湾の修築費の工事費を以て支出したことについてでございますが、これ又説明書百二十六頁に書きました通りでございますが、本部の宿舎といたしましては、戰時中軍の要請によりまして行われた関門海峡の改良工事のため、所要船員その他従業員の収容宿舎
これは勿論合理化、或いは近代化のために機械を変えたり何かすることは必要でありますが、軽工業に関しましては、大部分は御承知のように戰時中、軍の重科学工業に転換いたしましたので、これを増錘、拡張してするという問題が残つておりまして、一番大きな問題は纎維の問題で、これを極力拡張しなければならん段階になつております。
この国有林の中にあります放牧採草地というものは、地元との関係において非常に密接な関係があつたのでありますが、特に戰時中軍の方の要望に基きまして、昭和十四年は北海道でありますが、その前に大正五年に陸軍省と当時の農商務省との間に馬産供用限定地、馬のための放牧並びに採草地の取決めがありまして、当時府県の、内地の方の国有林に十三万町歩でしたか、その後昭和十四年に至りまして更に北海道の国有林に対しても、千島、
御説明では、戰時中軍の要請に基いて取り上げたというようなことでありましたが、これは共に述べられました大分川も同樣に私は考えるのでありますが、佐渡川も大分川も單に軍の要請に基いたものと言えない証拠があります。
奧尻村は無燈火村でありまして、戰時中軍の使用した小規模の火力発電を利用して、わずかに電燈の恩惠をこうむる百戸以外は、まつたく電化の恩惠に浴していない実情であります。
こういうふうな規定によつて若し教員が追放されて行くならば、非常に變てこなことになつて、戰時中軍國主義者であり、今日でもその思想を温存しておる連中は別にないが、戰時中の軍國主義的な思想を改めて、それを反省して、新らしい出發をした人達が飛んでもない迷惑を蒙むるということによつて、全く追放の趣旨に反するということになつて来ると私は思うのです。
しかるに、現内閣成立後、昨年六月二十六日に至りまして、東京地方裁判所檢事局に、高知縣の長野一之なる者が、平野氏の資格申請書には重要なる事実の脱漏があるものとして、皇道会の重要役員として活動したこと、機関紙「皇道」の発行兼編修人であつたこと等を、証拠を添付して説明をいたしまして、戰時中、軍國主義的、戰意高揚的活動を活動をなしていたことを指摘し、政治道徳の高揚をモットーとする…。
北海道奧尻郡奧尻村は無燈火村でありまして、戰時中軍の使用した小規模の火力發電を利用してわずかに電燈の恩惠をこうむる百戸以外は、まつたく電化の恩惠に浴してゐない實情であります。