1954-12-02 第20回国会 参議院 議院運営委員会 第3号
内田君は、お手元の履歴書で御承知のごとく、明治四十年大学卒業後、大正五年東京帝国大学助教授、同十年には同校教授に昇任、同校工学部長等を勤め、昭和十八年には東京帝国大学総長に任ぜられ、同二十年十二月官を辞するまで二十有余年に亘り幾多子弟の薫育に当つて来た者であり、又同人は我が国建築学界における第一人者であり、我が国文化財の保存及び活用並びに調査研究に当ることを職務とする同委員会委員として最適任者であると
内田君は、お手元の履歴書で御承知のごとく、明治四十年大学卒業後、大正五年東京帝国大学助教授、同十年には同校教授に昇任、同校工学部長等を勤め、昭和十八年には東京帝国大学総長に任ぜられ、同二十年十二月官を辞するまで二十有余年に亘り幾多子弟の薫育に当つて来た者であり、又同人は我が国建築学界における第一人者であり、我が国文化財の保存及び活用並びに調査研究に当ることを職務とする同委員会委員として最適任者であると
内田君は履歴書で御承知のごとく、明治四十年大学卒業後、大正五年東京帝国大学助教授、同十年には同校教授に任官、同校工学部長等を務め、昭和十八年には東京帝国大学総長に任ぜられ、同二十年十二月官を辞するまで、二十有余年に亘り幾多子弟の薫育に当つて來た者であり、又同人は我が国建築学界における第一人者であり、我が国文化財の保存及び活用並びに調査研究に当ることを職務とする同委員会委員として最適任者であると存ずるのであります