1947-08-02 第1回国会 衆議院 本会議 第21号
(拍手) 幸田露伴先生は、慶應三年東京に生れられ、明治十六年電信修技学校を卒業、同二十年北海道において一介の電信技手として勤務せられましたが、文学修行のために退職せられまして、早くも二十四才にして小説処女作を発表せられ、続いて「一刹那」、あるいは「風流佛」、あるいは「五重塔」、あるいはまた「天うつ波」等々の諸傑作を発表されることによりまして、尾崎紅葉とともに、明治文壇における紅葉露伴時代を現出せられ
(拍手) 幸田露伴先生は、慶應三年東京に生れられ、明治十六年電信修技学校を卒業、同二十年北海道において一介の電信技手として勤務せられましたが、文学修行のために退職せられまして、早くも二十四才にして小説処女作を発表せられ、続いて「一刹那」、あるいは「風流佛」、あるいは「五重塔」、あるいはまた「天うつ波」等々の諸傑作を発表されることによりまして、尾崎紅葉とともに、明治文壇における紅葉露伴時代を現出せられ
露伴翁は慶應三年の生れでございますから、本年は八十一歳に当られます。そうして先月が翁の生れた月だそうであります。そこで先月は翁の八十の賀が祝われたやに聞いております。我々といたしましては、翁が八十の賀を祝われるばかりでなく、更に九十の賀、百を迎えられ、ますます日本の文化のために盡して戴きたいと考えておつたのでありまするが、この度御永眠になりましたことは何とも哀悼に堪えません。