2016-11-25 第192回国会 衆議院 文部科学委員会 第8号
三島由紀夫の「金閣寺」が二〇二〇年に切れる、志賀直哉の「城の崎にて」が二〇二一年、こういうことであります。そういうことを考えてみると、最近切れるというものの中に、海外から著作権料を多額に、巨額に得られるというものは余りないんじゃないかというふうに思います。 その一方で、アメリカでは、先ほどのミッキーマウスに関連する商品の年間売上高は全世界で九十億ドルとも言われております。
三島由紀夫の「金閣寺」が二〇二〇年に切れる、志賀直哉の「城の崎にて」が二〇二一年、こういうことであります。そういうことを考えてみると、最近切れるというものの中に、海外から著作権料を多額に、巨額に得られるというものは余りないんじゃないかというふうに思います。 その一方で、アメリカでは、先ほどのミッキーマウスに関連する商品の年間売上高は全世界で九十億ドルとも言われております。
小説家の志賀直哉が、昭和十三年に、奈良を去るに当たって書き残した「置土産」と題する一文に次のようなくだりがあるんです。 東京の日比谷公園、上野公園、浅草公園、大阪の天王寺公園、中之島公園、皆公園にちがひないが、奈良公園を同じ公園の呼名で云ふのは少し間違つてゐるやうな気がして来た。
○下村国務大臣 志賀直哉は、昭和の初期に奈良市内に居を構え、そこから美しい若草山の姿を見たとのことであります。 御質問の文章には、奈良をこよなく愛した志賀直哉が奈良公園に対して抱いていた思いがあらわれておりまして、文化財を大切にしたいという気持ちは共感するものがあります。
一ページ目の左下が、かの有名な志賀直哉が大正の初めに「城の崎にて」を書いた三木屋旅館です。右側が、一番今では由緒あると言われている、大きい、格式の高い西村屋という旅館であります。こういうふうに綿々と残っている。 しかし、このときも、私の現地を見た写真を添付させていただいているんですけれども、やはり町の方が言うには、今は何とかこの景観を守れている。
その後、正宗白鳥さん、志賀直哉さん、川端康成さん、井上靖さん、遠藤周作さん、大岡信さん、梅原猛さん、そして今、井上ひさしさんがやられているという会ですね。
もう時間が迫ってまいりましたのですが、最後に、城崎温泉というのを御存じの方も多いかと思いますけれども、志賀直哉の小説で大変有名なところなんですが、豊岡市の北に接しておりまして、やはり二十三号台風で若干の被害があったわけでありますけれども、それがテレビや新聞で報道される、城崎の名前があるがゆえに余計にテレビに出たりするわけですが、テレビに出た途端に、これは旅館組合の話ですが、翌日から宿泊予約のキャンセル
○谷分科員 それでは、もう時間もなくなってきたわけでございますけれども、それに関連して、私の選挙区で城崎温泉という、志賀直哉の「城の崎にて」で有名な、全国的な温泉があるんですが、実は、そこの中学でこの春、私自身驚愕するような事件がありまして、事もあろうに中学校の卒業文集の中で、社会科の教師が、堂々と小泉内閣を批判する寄稿文を載せていた。 その文章の中には次のように書かれてありました。
○河村国務大臣 志賀直哉の「城の崎にて」というあの有名な、そこでこういう文章が出たというのを私も初めて聞いたんでありますが、これは教育の中立性といいますか、そういうことから考えても、教員が特定の政治的主張を一方的に行うというのはやっぱり問題であります。
○梶原分科員 私の選挙区でありますが、やはり幾つも観光地がございまして、丹波篠山でありますとか出石、城崎、城崎というと志賀直哉の「城崎にて」で大変有名でありますし、ほかにも、カニすき、スキーを生かして観光客の誘致が進められているわけであります。
最近の新聞で私は知ったんですけれども、大臣は志賀直哉の「暗夜行路」を買って愛読しておられたように聞いておるわけでございまして、今はまさにそのような暗夜行路の時代ではないかと思うわけでございますが、いつまでたっても暗夜行路では困るわけでございます。
武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、それから陶芸家のバーナード・リーチ、杉村楚人冠、柳田国男、柔道の嘉納治五郎さんもいたわけでありますけれども、非常に風光明媚な、北の鎌倉という場所だったのですね。
ここは、かつて明治末から昭和二十年ごろまで北の鎌倉とも言われ、自然豊かな手賀沼周辺には、志賀直哉あるいはまた武者小路実篤、滝井孝作などの文化人が多く住む、文化の薫り高い地で実はあったわけでございます。昭和三十年ごろまでは沼に多くの生物も生息しておったわけでございますが、今日は大変少なくなってもおります。しかし今、手賀沼の水質汚濁は十七年間もワーストワンを続けておる。
それは、小説の神様と言われました志賀直哉に「小僧の神様」という短編があったのをどなたも覚えておいでだと思うのです。一生懸命働く小僧に、どこのだれとも知らぬ紳士が金を与えるという短編なんですけれども、その紳士は小僧にとっては神様だという話なんです。戦後間もなくのことでしたが、この短編に太宰治がかみついたことがございました。
きょうは委員長には志賀直哉先生と長塚節先生を合併したような博学の委員長を迎えておりますからでありますが、私は、「ストマイを買い得ず逝きし兄を持ち公費医療の陳情を聞く」という一首を残したのでございましたが、そのようなことを思いますると、まさに今日、肺結核は完全に克服された感がありまして、思えば昔日の感を深くするということでございます。
また、これに関連しまして、同じような趣旨のことを作家であります志賀直哉も、論文の中で大変詳しくこれについて触れているわけであります。 さて、宮様も述べられましたように、では外国ではいわゆる建国記念日を何カ国くらいが、どのような日に選ばれているかというふうなこと、文部省はどういうふうにお答えになりますか。
大正から昭和の初めにかけて志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、杉村楚人冠など多くの文人墨客が住みついて旺盛な執筆活動をしたところです。当時の沼は清澄そのものでした。いまでも漁民が言っている言葉ですけれども、昭和二十年代までは舟で網を打ちながら、のどが渇くと沼の水をすくって飲んだそうで、それほど水はきれいでした。もちろん子供たちはこの沼で泳ぎながら成長いたしました。
私たちの知る文学作品の中で、島崎藤村の「椰子の葉蔭」あるいは志賀直哉の「暗夜行路」などがありますが、志賀直哉はその中で「南洋館というので土人の踊りがある」、こうした土人というのは、私たちの子供のころの漫画の「冒険ダン吉」なりあるいは「酋長の娘」で歌われてくるような土人のイメージであって、いわゆる未開の意味があります。
小泉信三、長谷川如是閑、馬場恒吾、鈴木文史朗、信時潔という音楽家、それから西田幾多郎、それから小説家は武者小路、志賀直哉、広津和郎、正宗白鳥というような超一流の人が呼ばれているのです。 それで広津さんは水交社へ行った。
これは、志賀直哉の「暗夜行路」からゲーテの「ファウスト」の冒頭のファウスト博士の告白に至るまで広範な例をお引きになりまして、たいへん私は啓発をされましたが、ただ「暗夜行路」も、非常にけわしい暗い行路であっても、「豊作じゃ豊作じゃ」というような一つの場面もございましたし、人間的な感情のつながりがはっきり出ておりますし、特にゲーテの「ファウスト」に至っては、従来の「初めにロゴスありき」という聖書のことばが
○説明員(安達健二君) 現行法の三十条の、いまお示しになりました三十条の三号で、「普通教育上ノ修身書及読本ノ目的ニ供スル為ニ正当ノ範囲内ニ於テ抜萃蒐輯スルコト」と、こういうのがございまして、まあ修身書というのはございませんけれども、読本はすなわち国語の教科書とか、英語のリーダー、そういうものに正当の範囲内において発行された著作物を利用すると、志賀直哉なら志賀直哉の文章を教科書に入れるとき、正当な範囲内
あなた方は頭が曲がっているから人のすることがみんな赤に見えたり、私を野坂に取り違えたり、学校では志賀義雄を間違えて、志賀直哉はけしからぬと言ったり、正気のさたではないのです。そういうことだから私どもは法務委員として今日までこの問題を取り上げてきました。きょうのあなたの答弁は全然普通の日本人の感覚になっていない。あなた方がおやりになればわれわれもやります。
作家の阿部知二さん、志賀直哉さん、中島健蔵さん、それから文化人では映画監督の新藤兼人さんとか、東京芸術座の村山知義さんとか、それから総評議長の太田薫さん、それから宇野重吉さとんか、北林谷栄さんとか、そういう映画人ですね、こういう人たちがとりあえず発起人として名をあげております。それで、この署名は非常に全国的に広がっております。社会党の方々だけを見ても、衆議院だけでも三十何人が署名されております。