1954-06-02 第19回国会 衆議院 厚生委員会 第55号
ただはつきり記憶をいたしておりませんが、建設省関係に戦災復興として実施をいたしておりました戦災復興院時代の残事業が若干残つております関係で、多少はまだ予算も残つておるのではなかろうか、かように考えておりますが、この点ははつきりいたしておりません。しかし水道行政に関します補助予算は、すべて厚生省だけで編成をいたしておる次第でございます。
ただはつきり記憶をいたしておりませんが、建設省関係に戦災復興として実施をいたしておりました戦災復興院時代の残事業が若干残つております関係で、多少はまだ予算も残つておるのではなかろうか、かように考えておりますが、この点ははつきりいたしておりません。しかし水道行政に関します補助予算は、すべて厚生省だけで編成をいたしておる次第でございます。
いま一つ、最初戦災復興院時代に戦後初めて高輪にアパートができました。現在は若干改良されておりますが、四階建のアパートは壁式構造でありまして、鉄筋のコンクリート被覆も当初のものは必ずしも十分でない。
○田中一君 私は戰災復興院時代と考えているが、当時の混乱した、占領軍にいわゆる国が調達したということ、その命令を受けるという立場で、恐らくそういう混乱時代に無論不用な物も買わなければならないという事実がたくさんある。或いはそれを売つてよろしいという命令がなければそのまま持つておらなければならないということもあつたと思う。従つて現在までの検査院からいろいろな意味の批難は当然です。
如何にもまずい、混乱時代とは言いながら買い方もまずい、それから戰災復興院時代は別として、名古屋に分けたり、五円で売つたということは、如何にもまずいのでありますが、別にその蔭に犯罪があるというようなことは私どもとしては考えておりません。
(六) 大橋武夫と足利工業その他本件との関係 (1) 昭和二十三年三月頃、大橋は復興院時代の部下である特調契約局石破次長や丸事務官の紹介で、足利工業株式会社の顧問弁護士となつたという。本件二重煙突の発註があつた昭和二十一年十二月頃には、大橋はその関係局たる復興院計画局長であつた。
(六)大橋武夫と足利工業その他本件との関係 (1)昭和二十三年三月頃大橋は復興院時代の部下である特調契約局石破次長や丸事務官の紹介で、足利工業株式会社の顧問弁護士となつたという。本件二重煙突の発注があつた昭和二十一年十二月頃には、大橋はその関係局たる復興院計画局長であつた。
○カニエ邦彦君 そこで、この問題になつております二重煙突が、これが復興院時代に契約をされたのでありますが、この契約された当時の実態はどういうような関係で契約されたのか、その点一つ御説明願いたいと思います。
次に、右証人と特調幹部との人的関係を申上げますと、特調の三浦元監事とは戦災復興院時代の同僚であり、元契約局長伊藤清とは、内務省における先輩後輩関係であり、元経理局経理第二課長横田廣吉とは上司下僚の関係でありまして、同証人が特調との関係で演じた役割は、足利工業の依頼によつて代金支払の促進を特調に依頼したことと、特調の依頼によつて過払金の回収について盡力したことであります。
最初復興院時代におきまして、一億八千万坪に亘りまして、実は区画整理を実施して参るという方針であつたのでございまするが、昨年経済安定本部と打合せをいたしました結果、実は一億坪に減少をいたしたのでございまするが、今回この一億坪の区域の面積にきまして、先程申上げましたような方針に基いて再検討をしろということにいたしました結果が、大体一割五分削減いたしまして、八千五百万坪ということに決定をいたしたのでございます
御承知の通りに戰災復興につきましては、計画の面と事業の実施面とがありまして、事業の実施面につきましては、当初戰災の区域全國一億八千万坪につきまして、これが戰災復興の方途を戰災復興院時代に立てたのであります。
つまり実体と反対に幹部だけが事務官僚の数が二対六というようになつておるのは、これは内務省時代か又は復興院時代からのつまり古い官僚制度のただ勢力が残つておるというだけで、何らそこに科学的、技術的な、行政的な根拠はないのじやないか、これを改められる意図があるかどうか、つまり私は技術者で以て何も彼もしろと言うのではない。
それに対する対策を建設院並びにその以前の戰災復興院時代からそれぞれ計画を立てておつたわけです。何分にもやはり國の財政の関係等に制約されまして、それと資材の制約がございますから、当初の計画が予定通り進まないというような状況になつていることはまことに遺憾だと存じておりますが、さしあたりお話の庶民に対する住宅の対策としては一應國の補助住宅というのがその一つでございます。