2003-06-12 第156回国会 衆議院 憲法調査会 第8号
蒋介石が西安にいわゆる張学良を説得しに行きましたが失敗。父親張作霖を日本の河本大作大佐に殺されたものですから、腹いせに、息子の張学良が毛沢東と組みました。西安に説得に行った蒋介石を一晩じゅういすも何にもない部屋に入れて、下から暖炉をたいたんですね。
蒋介石が西安にいわゆる張学良を説得しに行きましたが失敗。父親張作霖を日本の河本大作大佐に殺されたものですから、腹いせに、息子の張学良が毛沢東と組みました。西安に説得に行った蒋介石を一晩じゅういすも何にもない部屋に入れて、下から暖炉をたいたんですね。
それから張学良という男、これが満州人の怨嗟の的になっておったのであります。満州人から恨まれておった。この人は父親の張作霖と並んで、悪としてなさざるはないと言われたのであります。実は満州事変が起きた後、本庄さんという関東軍の司令官が当時北京にいた張学良を満州にもう一度呼び返そうということをちょっと考えたことがあって、そのときそれを知った満州人は本庄関東軍司令官のもとに嘆願書を出しているのであります。
満州事変は、確かに日本の政府の方針を無視して当時の関東軍が勝手に動いたという話、あるいは国民政府は、張学良という人とは政治、政権的には全く別の形、掌握できなかったということがあるんですが、そういう人たちの、関東軍と張学良という指導者との間で仮にぶつかったものは事変と呼んでいいかも知れないが、それがきっかけになって十数年という不幸な戦争が続いた、しかも中国全土において、いずれにしろ大変な損害を与えたということなのでありますから
それから第二に挙げてございます満州事変のことでございますが、これは関東軍の現地参謀らが南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国軍の行為であると偽って張学良軍に対し攻撃を開始したことに始まること、これはいわゆる柳条溝事件でございますけれども、以後関東軍は東北地方全域に軍事行動を起こし、占領地を拡大していったこと、ついには満州国を発足させるに至ったこと、これはほとんどの検定済み教科書において詳細に記述されておりまして
蒋介石を抗日戦争に立ち上がらせるきっかけとなった西安事件のときに、張学良の説得に行くようにと蒋介石をおだてたのもユダヤ人です。それから、ブラジルで日本人の勝ち組と負け組がけんかしたのは、実は香港にいたユダヤ人が、いずれおまえの国は戦争に勝つからこれを買っておいたら値段が上がるぞと言って、中国にあった日本の軍票を買い集めてブラジルの日本人に売りつけた。
あの西安事件のときには、張作霖は昭和三年に殺されて、むすこの張学良は北伐軍の一党に入っておりましたが、それが自分のおやじを殺されたところから頭にきて、毛沢東、周恩来と接近をし始めた。それをなだめにいった蒋介石が護衛を全部機関銃で撃ち殺されている。そして山の中に寝巻き一枚で逃げたのを周恩来、毛沢東につかまった。
張学良の鉄砲も撃たぬという状態でしょう。だからそれじゃいかぬですよ。そういう点もう少しやはり経済計画と対等にものの言える計画をつくるということにしてもらいたいと思うのですが、ひとつ小平さんから答弁をしてください。
あとの方から申しますと、「満州では、張学良が日本勢力の排除をはかり、一九二九年以来、満州には日華両国間の紛争が繰り返された。一九三一年九月、ついに満州事変が起こったのである。これは関東軍の計画的行動で、九月十八日柳条溝で鉄道を爆破するとともに、日本軍の軍事行動は、直ちに全満州に展開され、間もなくその基地をことごとく占領した。
張作霖の政府も、張学良の政府も相手にいたしました。北京政府も相手にいたしました。しかしその根本の観念は中国の民衆と手を結ぶことであることは、これは私といえども人後に落ちません。しかし現実問題といたしましては、やはり共産党政府も相手方とし、広東政府を相手方としなければならぬ。現実の政治の問題としては、中共政府を相手方にするかいなかという問題でございます。
それから一方中国では国民党の革命が成就しまして、全国統一が着々行われておつたのとありますが、昭和三年の張作霖の爆死のあとで、張学良が蒋介石の中央と非常に深く結びつきまして、ここに満州の権益がかなり脅かされるというような事情にあつた。外交問題においてはそのような重要な条件があつたのであります。