2008-11-13 第170回国会 参議院 外交防衛委員会 第7号
実は、官房長官にちょっとお聞きしたいと思いますが、今も、総理がこの間寄稿された文芸春秋に東京裁判についていろんな論文が出ていますけれども、その中で田中義一総理、昭和三年ですけれども、張作霖の爆破事件を起こした河本大佐を軍法会議にかけられず、そして与党や軍の圧力に屈して行政処分だけに終わらせてしまったと。昭和天皇も厳しくこの田中義一首相を叱責されたと。
実は、官房長官にちょっとお聞きしたいと思いますが、今も、総理がこの間寄稿された文芸春秋に東京裁判についていろんな論文が出ていますけれども、その中で田中義一総理、昭和三年ですけれども、張作霖の爆破事件を起こした河本大佐を軍法会議にかけられず、そして与党や軍の圧力に屈して行政処分だけに終わらせてしまったと。昭和天皇も厳しくこの田中義一首相を叱責されたと。
これはいろんな話があるんですけれども、軍部の方が上手で、張作霖爆殺事件が昭和三年にあった、そのときにマスコミがもう総スカンで軍部に刃向かったというので、あれじゃ駄目だと。今度はマスコミの対策をうんと上手にしようというので、軍部の中に情報局、情報部をつくったりしまして、マスコミの偉い人たちをみんな呼んでのべつ飲ましていたんですね、機密費で。
このイラク特別事態という言葉も、よくぞ考えついたと思う、非常に気持ちの悪い日本語でありますけれども、何か満州某重大事件、これは張作霖爆殺事件のことでありますが、あるいは満州事変のような、そういうのを思い起こします。 ちなみに、今回のイラク特別事態というのは、実は満州事変にそっくりなんですね。
父親張作霖を日本の河本大作大佐に殺されたものですから、腹いせに、息子の張学良が毛沢東と組みました。西安に説得に行った蒋介石を一晩じゅういすも何にもない部屋に入れて、下から暖炉をたいたんですね。
そして、たくさんの軍閥を討って、一番究極の目的は北京に陣取っている張作霖を討つ、そして中国の南北を統一するというのが北伐の目的であったわけでございます。 この北伐の過程でさまざまなトラブルが外国との間に生ずるわけでございます。初めは英国との間に、やがてこれが日本との間に生じてまいります。北伐が進展していく過程というもの、そしてそれが北に上がっていくに従って、満州に近づいていく。
そこで、先ほどの戦争の前期、満州事変といいますか、このことについてやや軌道修正をしておきたいと存じますが、いわゆる鉄道の爆破事件、張作霖の事件あるいはあのときに登場した関東軍の諸君の行い、そうしたことをつづっていってみますと、これは、その観点を重く見た場合は、我が方からしかけた侵略戦争であるかなという感じも持つわけであります。
私はかなりの年配ですから、これで二つのことを思い出すのですが、昭和六年にあの関東軍が柳条湖ですか柳条溝を爆破しまして、そしてこれが張作霖側の陰謀であるということで関東軍が行動を開始する名目になったわけです。そしてあの十五年戦争が始まりまして、日本の内外情勢は非常に変わってまいりました。
そうして、例えば二十一カ条の要求であるとか、あるいは張作霖の爆殺事件であるとか、あるいは満州事変の発端となった柳条溝の爆破であるとか、こういうような一連のことをずっと反省してみる必要があるのです。歴史の事象というものはその時点、その時点に顕微鏡を当てて見るということでは正当な判断はならない。
私は、日中戦争につきましては、例えばいわゆる対支二十一カ条の要求であるとか、あるいは張作霖の爆殺事件であるとか、あるいは柳条溝事件であるとか、さまざまな事件がその根底にありまして、中国民族の感情を著しく傷つけていたという事実を否定することはできない。
例えば戦前、張作霖爆死事件があった、柳条溝や蘆溝橋事件があった。ところがあれはいずれも戦争拡大をねらう軍部がひそかに仕組んだ軍の謀略だったという事実をその当時国民が知り得たならば、国民はやすやすと間違った戦争に日本がいくことを許しただろうか、歴史の教訓に学ばねばならぬと思います。
しかしこれは、日本が中国の東北部侵略をやった際にも、張作霖爆殺事件あるいはまた柳条溝の事件等々は、すべて日本軍部がやったというのは国際社会は認めておったけれども、日本が認めなかった。今アメリカがとっておる政策は、その日本の政府の立場と余り変わらぬのじゃないか、私はそう思う。現に世界各国はすべて、アメリカの勢力によってこの機雷封鎖が行われたのであるという認定をしておるのではありませんか。
張作霖爆殺事件の責任をとった田中義一内閣の後の浜口内閣が命を賭して追求したものは、最も反動的な枢密院、軍部の圧力をはねつけたロンドン軍縮条約と国際協調であり、国内にあっては労働組合法の成立でした。だからこそ、軍縮条約の批准直後、右翼の凶弾が浜口首相を襲ったのであります。 政府・自民党は、この悲劇の歴史に一体何を学んだのでありましょうか。
それで、いまお話しの、前の張作霖でしたですかの事件などもいろいろその後のことで承知しておりますが、確かに歴史の中の一つの場面として、いまの御指摘のようなことがあったと承知しております。 ベトナムをそれと同じように考えていいか、これはいろいろまだ客観的な歴史として論ずるのはむずかしいようにも思います。
というふうに書きまして、そうしてさらに「張作霖の爆殺」、これは一九二八年でございますから、「爆殺から、柳条溝事件(一九三一)をへて、支那事変、大東亜戦争へと暴走した大日本帝国の歴史はまことに戦慄的である。」と、こういうふうに猪木さんは続けておるのでございます。
あの西安事件のときには、張作霖は昭和三年に殺されて、むすこの張学良は北伐軍の一党に入っておりましたが、それが自分のおやじを殺されたところから頭にきて、毛沢東、周恩来と接近をし始めた。それをなだめにいった蒋介石が護衛を全部機関銃で撃ち殺されている。そして山の中に寝巻き一枚で逃げたのを周恩来、毛沢東につかまった。
満州事変の原因として「日本軍は張作霖の乗っていた汽車を爆破して、張を爆死させた」と、かつての教科書はこう書かれておりました。この記述は削除をされました。そして「奉天近くで中国軍と戦い満州事変が起こった」と修正をさせられました。太平洋戦争は、「中国との戦いが太平洋戦争の根本的原因である。
一九二八年、昭和三年、張作霖爆死事件というものがありましたですね。これは二十年も秘密——二十年もというか二十年近くも秘密としてやられたわけです。その結果何が起こったでしょう。あなたも経験をされたでしょう。私も三十キロで、栄養失調で帰ってきました。八十二名の同年兵はたった二人しか生きておりません。私ともう一人。死にました。あなたはお元気でたいへんけっこうでした。
それから次は張作霖爆破事件等を引用されまして秘密外交の行く末ということについてどう思うか、こういうお話でありますが、ああいう形の秘密外交というか秘密処理、こういうことが行なわれては断じて相ならぬ、こういうふうに思っております。まあしかし私ども外務省の仕事は人と人との話し合いが主軸になるわけです。
昭和4年の田中内閣が」」——ここにも田中さんおられるかもしれませんが、おとうさんですが、「田中内閣が張作霖暗殺事件について真相をかくした。それが天皇にわかって総辞職した。新憲法で、いまは主権者は国民であり、国権の最高機関は国会です。その国民に対して佐藤政府はウソをついた。」「ひっくくるべき(逮捕すべき)は佐藤なんだ。それなのに佐藤は権力をカサに問題をすり代えてきおった。
なぜなら、日本はかつて張作霖政府、満州国の溥儀皇帝の政府、北京の段祺瑞政府、南京の汪兆銘政府、河北の王克敏政府など、中国の地方政府を承認し、それを援助してきたのであります。内政干渉をしてきたのであります。あやまちをおかしてきたのが日本の歴史であります。中国の人たちはこのことを十分に承知しており、忘れておらないのであります。したがって、日台平和条約の破棄を明確にする必要があると存じます。
それからまた、たとえば満州の問題とか、張作霖が満州を支配しているときにソ連との間に協定をつくっていますね。それからまたチベットとイギリスとの間に条約をつくっている。一つの国、中国という国は一つでありますから、その国の一部とそういう協定、条約をつくっている。しかも、いま申しましたように、汪兆銘政府というのは、日本はこれを承認した。しかもこれの支配区域はごく中国の小部分であった。