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37件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2008-11-13 第170回国会 参議院 外交防衛委員会 第7号

実は、官房長官にちょっとお聞きしたいと思いますが、今も、総理がこの間寄稿された文芸春秋に東京裁判についていろんな論文が出ていますけれども、その中で田中義一総理昭和三年ですけれども、張作霖爆破事件を起こした河本大佐軍法会議にかけられず、そして与党や軍の圧力に屈して行政処分だけに終わらせてしまったと。昭和天皇も厳しくこの田中義一首相を叱責されたと。

藤田幸久

2007-02-07 第166回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第1号

これはいろんな話があるんですけれども、軍部の方が上手で、張作霖爆殺事件昭和三年にあった、そのときにマスコミがもう総スカンで軍部に刃向かったというので、あれじゃ駄目だと。今度はマスコミの対策をうんと上手にしようというので、軍部の中に情報局情報部をつくったりしまして、マスコミの偉い人たちをみんな呼んでのべつ飲ましていたんですね、機密費で。

半藤一利

2003-07-02 第156回国会 衆議院 イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 第7号

このイラク特別事態という言葉も、よくぞ考えついたと思う、非常に気持ちの悪い日本語でありますけれども、何か満州重大事件、これは張作霖爆殺事件のことでありますが、あるいは満州事変のような、そういうのを思い起こします。  ちなみに、今回のイラク特別事態というのは、実は満州事変にそっくりなんですね。

達増拓也

1993-11-08 第128回国会 参議院 決算委員会 第3号

そして、たくさんの軍閥を討って、一番究極の目的北京に陣取っている張作霖を討つ、そして中国の南北を統一するというのが北伐の目的であったわけでございます。  この北伐の過程でさまざまなトラブルが外国との間に生ずるわけでございます。初めは英国との間に、やがてこれが日本との間に生じてまいります。北伐が進展していく過程というもの、そしてそれが北に上がっていくに従って、満州に近づいていく。

木暮山人

1989-12-06 第116回国会 衆議院 文教委員会 第7号

そこで、先ほどの戦争の前期、満州事変といいますか、このことについてやや軌道修正をしておきたいと存じますが、いわゆる鉄道の爆破事件張作霖事件あるいはあのときに登場した関東軍の諸君の行い、そうしたことをつづっていってみますと、これは、その観点を重く見た場合は、我が方からしかけた侵略戦争であるかなという感じも持つわけであります。  

石橋大吉

1986-11-20 第107回国会 衆議院 内閣委員会 第6号

私はかなりの年配ですから、これで二つのことを思い出すのですが、昭和六年にあの関東軍が柳条湖ですか柳条溝を爆破しまして、そしてこれが張作霖側の陰謀であるということで関東軍が行動を開始する名目になったわけです。そしてあの十五年戦争が始まりまして、日本内外情勢は非常に変わってまいりました。

大原亨

1986-09-17 第107回国会 参議院 本会議 第3号

そうして、例えば二十一カ条の要求であるとか、あるいは張作霖爆殺事件であるとか、あるいは満州事変の発端となった柳条溝の爆破であるとか、こういうような一連のことをずっと反省してみる必要があるのです。歴史の事象というものはその時点、その時点に顕微鏡を当てて見るということでは正当な判断はならない。

中曽根康弘

1985-05-17 第102回国会 衆議院 外務委員会 第13号

しかしこれは、日本中国東北部侵略をやった際にも、張作霖爆殺事件あるいはまた柳条溝の事件等々は、すべて日本軍部がやったというのは国際社会は認めておったけれども、日本が認めなかった。今アメリカがとっておる政策は、その日本政府の立場と余り変わらぬのじゃないか、私はそう思う。現に世界各国はすべて、アメリカの勢力によってこの機雷封鎖が行われたのであるという認定をしておるのではありませんか。

井上普方

1983-03-24 第98回国会 衆議院 本会議 第14号

張作霖爆殺事件の責任をとった田中義一内閣の後の浜口内閣が命を賭して追求したものは、最も反動的な枢密院、軍部圧力をはねつけたロンドン軍縮条約国際協調であり、国内にあっては労働組合法の成立でした。だからこそ、軍縮条約の批准直後、右翼の凶弾が浜口首相を襲ったのであります。  政府・自民党は、この悲劇の歴史に一体何を学んだのでありましょうか。

上田卓三

1980-02-21 第91回国会 衆議院 外務委員会 第3号

それで、いまお話しの、前の張作霖でしたですかの事件などもいろいろその後のことで承知しておりますが、確かに歴史の中の一つの場面として、いまの御指摘のようなことがあったと承知しております。  ベトナムをそれと同じように考えていいか、これはいろいろまだ客観的な歴史として論ずるのはむずかしいようにも思います。

大来佐武郎

1973-03-29 第71回国会 衆議院 内閣委員会 第10号

あの西安事件のときには、張作霖昭和三年に殺されて、むすこの張学良は北伐軍の一党に入っておりましたが、それが自分のおやじを殺されたところから頭にきて、毛沢東周恩来と接近をし始めた。それをなだめにいった蒋介石が護衛を全部機関銃で撃ち殺されている。そして山の中に寝巻き一枚で逃げたのを周恩来毛沢東につかまった。

中山正暉

1972-06-06 第68回国会 参議院 法務委員会 第21号

一九二八年、昭和三年、張作霖爆死事件というものがありましたですね。これは二十年も秘密——二十年もというか二十年近くも秘密としてやられたわけです。その結果何が起こったでしょう。あなたも経験をされたでしょう。私も三十キロで、栄養失調で帰ってきました。八十二名の同年兵はたった二人しか生きておりません。私ともう一人。死にました。あなたはお元気でたいへんけっこうでした。

野々山一三

1972-06-06 第68回国会 参議院 法務委員会 第21号

それから次は張作霖爆破事件等を引用されまして秘密外交の行く末ということについてどう思うか、こういうお話でありますが、ああいう形の秘密外交というか秘密処理、こういうことが行なわれては断じて相ならぬ、こういうふうに思っております。まあしかし私ども外務省の仕事は人と人との話し合いが主軸になるわけです。

福田赳夫

1972-04-13 第68回国会 衆議院 外務委員会内閣委員会地方行政委員会法務委員会連合審査会 第1号

昭和4年の田中内閣が」」——ここにも田中さんおられるかもしれませんが、おとうさんですが、「田中内閣張作霖暗殺事件について真相をかくした。それが天皇にわかって総辞職した。新憲法で、いまは主権者国民であり、国権の最高機関は国会です。その国民に対して佐藤政府はウソをついた。」「ひっくくるべき(逮捕すべき)は佐藤なんだ。それなのに佐藤は権力をカサに問題をすり代えてきおった。

三宅正一

1972-03-01 第68回国会 参議院 本会議 第6号

なぜなら、日本はかつて張作霖政府満州国溥儀皇帝政府北京段祺瑞政府、南京の汪兆銘政府、河北の王克敏政府など、中国地方政府を承認し、それを援助してきたのであります。内政干渉をしてきたのであります。あやまちをおかしてきたのが日本歴史であります。中国人たちはこのことを十分に承知しており、忘れておらないのであります。したがって、日台平和条約の破棄を明確にする必要があると存じます。

成瀬幡治

1971-08-10 第66回国会 衆議院 外務委員会 第3号

それからまた、たとえば満州の問題とか、張作霖満州を支配しているときにソ連との間に協定をつくっていますね。それからまたチベットとイギリスとの間に条約をつくっている。一つの国、中国という国は一つでありますから、その国の一部とそういう協定条約をつくっている。しかも、いま申しましたように、汪兆銘政府というのは、日本はこれを承認した。しかもこれの支配区域はごく中国の小部分であった。

北澤直吉

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