1995-04-26 第132回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号
段本 幸男君 防衛施設庁施設 部連絡調整官 坂本 憲一君 ――――――――――――― 本日の会議に付した案件 ○沖縄及び北方問題に関しての対策樹立に関する 調査 (国会議員の北方四島ピザなし交流参加に関す る件) (北方四島周辺水域における漁業の安全操業に 関する件) (ロシアの国内情勢に関する件) (対日支援に関する件) (サハリンからの引揚船撃沈事件
段本 幸男君 防衛施設庁施設 部連絡調整官 坂本 憲一君 ――――――――――――― 本日の会議に付した案件 ○沖縄及び北方問題に関しての対策樹立に関する 調査 (国会議員の北方四島ピザなし交流参加に関す る件) (北方四島周辺水域における漁業の安全操業に 関する件) (ロシアの国内情勢に関する件) (対日支援に関する件) (サハリンからの引揚船撃沈事件
しかし、私は、ソ連が捕虜を六年間も、六十万人近い人間がシベリアの荒野にさらされて労役に服したという、私は当時まだ学生でございましたけれども、舞鶴へ引き揚げてくる引揚船の姿もまだまざまざと心に残っております。私は、そういうことが日本人の心の中に永久に残り続けるだろう。
これは色丹島出身の佐藤クエさんの手記でありますが、 私は斜古丹ですので他人のお墓の隅の方を借り、引揚船の出る二日前に無念の思いを残して、死亡しこの島に淋しく眠る夫と、若くして、死亡した長男・軍司ちゃんの魂に一人言をぶつぶつ言いながら供え物を上げました。 その間にお経が始まり、斜古丹まで届けと云わんばかりに大きな声でお経をあげて下さいました。
昨日も御連絡をいたしておきましたが、例のボゴダ丸、昭和二十四年の一月九日に、これは引揚船に使っておった船だと思うのですが、このボゴダ丸が、米軍より引き渡された四千八百二十二体、うち遺骨三百七柱を積み込んで、マニラから佐世保の針尾に陸揚げをして火葬をしたわけですね。当時の佐世保引揚援護局というそこで保管をして、それから、後日復員局の方に移送したわけです。
昭和二十年八月十五日の敗戦の日から一週間後の八月二十二日、樺太(サハリン)大泊港、現在のコルサコフ港から小樽港へ向かう途中の引揚船泰東丸が、故国を目前にいたしまして、北海道の留萌管内の小平町沖で、国籍不明の潜水艦によって砲撃を受け、沈没をいたしました。
関する陳 情書外十三件 (第一三一号) 靖国神社の公式参拝実現に関する陳情書外六件 (第一三 二号) 戦後ソ連強制抑留者に対する補償等に関する陳 情書外一件 (第一三三号) 傷病恩給等の改善に関する陳情書 (第一三四号) 民主的行財政改革に関する陳情書外六件 (第一三五 号) 元日本軍人・軍属の台湾人戦死者等に対する補 償に関する陳情書 (第 一三六号) 旧樺太引揚船小笠原丸外二船
だからこの指令の中の引き揚げに関する基本指令付属五号の二のA、B、これらから見てみましても、日本政府は引揚船には看護人も乗せなさい、それから医師も乗せなさい、指令にぱしっと出ておるわけです。そういうことに基づいて厚生省が行った、こういうように私は理解ができると思うのです。 この経過を見てみますと、陸海軍が廃止をされたのが昭和二十年十一月三十日です。
○河野(義)政府委員 いま先生が当時の資料を読み上げられましたが、そのとおりの事実でございまして、私ども、この方々の戦後の引揚船における御苦労とか、あるいは亡くなられたことにつきましては、大変お気の毒に思っております。
これはもうその人々の心情をくんでみますると、いつか帰って来るのじゃないだろうか、もう、とうになくなられたという昔の死亡通告をもらった方でも、ソ連でなくなったといえば、舞鶴に引揚船が毎回入るたびに出てみて、ひょっとするとあの中にまじってうちのむすこが帰りゃせぬだろうか、うちの亭主が帰りゃせぬだろうかと思って見に行く人がたくさんあったことは御存じのとおりです。
その人々が自分たちの引揚船別あるいは地区別に連絡をとっておるわけでありますから、その人々にあなた方が直接話されて、そして希望もよくとられて、そして、これは人別にみな条件が違いますから、それを十分確かめて、その希望を的確につかんで、今後早急に積極的に処理をされることが私は一番必要ではないかと思うのです。
これに基づきまして、三十一年の九月から後数回ございました集団引揚船で、二千三百九十八柱の遺骨が送り返されております。この二千三百九十八の御遺骨の中には、平和条約に基づきまする戦犯処刑者が四十柱含まれております。そのほか、中共関係の法務関係死亡者といたしまして、昭和三十年の十二月に四十柱、御遺骨が送還されたわけでございます。
しかし、日本から引揚船がこないのと、その当時私はまだなおっておらなかったが、ほかの四人はなおっていたので、結局、私だけがナホトカから三百キロのウォロシロフという町の病院に入院させられました。ほかの四名は、またハバロフスクに帰ったと思うのですが、その病院に入院しましたところ、そこにまた新たに四名いて、結局これで病人は九名になったわけです。
私が国籍をとらずに、一般の捕虜であったなら、幾ら手続をしたところで、日本政府はどういうふうに考えているか私にはわかりませんが、今ちらほら四人とか五人とかの引揚者に引揚船を出すかどうか、結局、私はこれまでは結果がわからなかったのです。
それともう一つは、一般の捕虜は、五〇年までは、日本政府は引揚船として前は興安丸を使っておりましたが、私たちは、その捕虜の最後の帰国にも間に合っておらず、今ソ連にどのくらい日本人が残っておるのか、それもわかりません。一人や二人のために船をちょいちょい出してはくれない、その問題もあります。それと生活の問題、これです。
これまでの引揚船はいずれも舞鶴東港に入港し、上陸は平桟橋を使用していたのでありますが、台風のために同桟橋の専用タラップ船が沈没し、使用不可能のため舞鶴西港に入港し、第四岸壁に接岸、引き揚げ上陸を行なったのであります。
これは、私はせんだって第二十一次引揚船を迎えたときに、その報告会を藤山外務大臣などお呼びしてここでやった。そのときに、外務大臣は、国交回復しない国の情報は、結局するところ、国連、そういうものを通じてやらなければならぬのじゃないかというふうな答弁をしたのが、さっそくここに現われてきたものだと思います。
○長谷川(峻)委員 今御報告した通りでありますが、今度の引揚船をもって中共からの集団帰国は最後であります。そこで、従来統計によりますと、まだ引き揚げざる者が三万六千名あるとわれわれは承知しておる。その数字が一体どういうふうに確認されておるか、これを一つ関係当局から聞きたいと思います。
こういう人たちを、なぜ引揚船に乗せたか。聞くところによると、その中の一人の張立文というのは、ことしの二月に華僑送還で中共へ渡った人だという。それがまた今度帰ってきた。それでは、まるで引揚船が、日本海を自由にただで行ったり来たりできる定期船みたいなものになるだろうと思うんです。その船賃がどうなったかということが一つ。
引揚船に引揚者でない方が乗ってくるということにつきましては、非常に遺憾に思っておるわけであります。その人たちは、本来引揚船に乗るときに、引揚者でないその人たちが乗ってきてしまったということで、日本人であるということであれば、送り帰すということもできないかと思っております。従いまして、船賃はちょうだいするということで話をいたしております。
従来のやり方といたしましては、民間団体がこれを収集してお送りしておるということは御承知の通りだと思いますが、その際引揚船がございますので、それにお乗せをしてお送りするというふうなことが従来から行われております。
そして同君についてはかねて勤務しておった明治鉱業所においても同氏を確認しており、今この鉱業所の寮でもってお世話をしている、そして近き便船かあるいは適当な引揚船等の都合を得て、そして本国に帰国するように取り計らって参るという手順がきめられておるということで、それまでは十分寮においてお世話をしてやるということでございます。
そこで私は民間の車を準備いたしまして、二日間にわたってあのエジプトの南から北の戦場の跡を単身で視察をして、そうして沈船の状況、それから国連の引揚船の作業の進捗状況、国連の技師との会談、現場をしさいと検討いたしまして、大体技術的には三月末に開けるだろう、政治的な制約によって延びるかもしれぬという結論を出して大使館に参りましたが、大使館員ではだれ一人としてその現場を見ておる人がおらない。
第一回のときは、ナホトカ港が凍っていたので、引揚船の興安丸は非常な迂回をしてようやく出てきたと報告されている。ところが一昨年の第十一回のときは、一片の氷も見当らず、また現在山下汽船等は冬季も休まずに配船しているという話が出ている。ナホトカ港は非常に暖かくなってきて、近ごろは野菜類も相当とれるようになってきたという情報が入っている。
その次の船が十五次引揚船になるわけです。ちょうど十八日まで待ちまして、十八日には谷口と斎藤夫妻は許されたわけです。そして私の妻のマリヤだけが許されないわけです。そこで、また戦かったのですが、向うのとめたのは税関です。それから、沿岸警備、国境警備の方の係官が、「あなたの妻はソ連人として引き揚げるわけです。そのためには外国居住旅行手形をもらわなければならない。そしてそこの国から出なくちゃならない。
引揚船白山丸は、去る一月十五日午後四時舞鶴港を出港、途中しけのため佐渡両津港沖に三日間待避いたしましたため、若干予定がおくれましたが、一月二十七日午前八時無事舞鶴港に入港いたしました。当日はみぞれが降って骨を刺すような寒い日でございました。私は、当日朝舞鶴に到着いたしまして、引き揚げの方々のために、みぞれのやむことを心に祈りながら、直ちに地方援護局におもむいた次第でございます。