2013-11-26 第185回国会 衆議院 国家安全保障に関する特別委員会 第19号
そこでは、先ほど申し上げました推本の断層モデルに基づいて津波高の試算をした結果、明治三陸地震で小名浜ポイントプラス十三・七メートルから十五・七メートル、江戸時代の延宝房総沖地震、小名浜ポイント十三・六メートルということで、確実に、三・一一の東北地方太平洋沖地震の津波高、小名浜ポイント十一・五から十五・五を想定していたという事実が判明しております。
そこでは、先ほど申し上げました推本の断層モデルに基づいて津波高の試算をした結果、明治三陸地震で小名浜ポイントプラス十三・七メートルから十五・七メートル、江戸時代の延宝房総沖地震、小名浜ポイント十三・六メートルということで、確実に、三・一一の東北地方太平洋沖地震の津波高、小名浜ポイント十一・五から十五・五を想定していたという事実が判明しております。
特に、日本海溝プレートの境界で地震がありましたので、千葉県の日本海溝沿いの地震としては、一六七七年に延宝房総沖地震というのが発生しております。
例えば一六八一年、延宝九年の公の文書、これによりますと、江戸時代の初期に伯耆藩の住民、これが幕府から竹島を拝領し経営してきたという記録がございます。また、一九〇五年二月には、閣議決定及びそれに続く島根県告示によりまして、日本政府は近代国家として竹島を領有する意思を再確認いたしました。
これは三原長官が御担当だそうですが、ちょっと伺いますが、養和三年、それから延宝九年、大平元年、これを古い順に並べてください。
延宝九年はそうですけれども、大平元年というのはこれは日本の年号の歴史にはありません。強いて言えば去年の十二月かもしれません。ただ、これは一一八一年、一六七三年とこう言えば、これは順序ははっきりわかるわけですよ。だから元号は必ず便利だということにもならないという事実を私はひとつ立証したわけであります。
土地の古老は、延宝何年か——約二百年前、こういった大きな水害を受けたということを、伝説として聞いておるというふうなことでございます。近年は、私も二十年余り政治に携わっておりますが、そういうことは絶えてなかった。
それから初めて日本が調査を開始いたしましたのは、延宝三年に長崎の船頭島谷市左衞門という方が幕命によりまして、それを巡検しましたのが日本では初めてでございます。それから文政六年に米捕鯨船長のコフインが来まして、それをコフイン島と名付けて帰つたということも歴史に残つております。
小笠原島は歴史的に見て先ず昔小笠原貞頼という人によつて発見されたものであると言われ、爾来日本政府としましては、延宝三年、一六七五年に調査を初めてしまして、その後も文久元年、一八六一年及び明治八年に調査をいたし、又明治九年、一八七六年にはこれを正式に日本の領土としたものでありますが、その前に一八三〇年に五名のヨーロツパ人と二十名のカナカ土人が移住して来ておりますけれども、これはいずれもその領土帰属問題
国家として同島を領有する目的のもとに実地調査を行つたのは、延宝三年(一六七五年)の日本政府の調査が初めてのことであり、その後日本政府はさらに文久元年(一八六一年)及び明治八年(一八七五年)の二回にわたる調査を経て、明治九年(一八七六年)これを日本領土としたものであります。