1959-02-24 第31回国会 参議院 外務委員会 第5号
○森元治郎君 場所がベルグラードで三十一年という戦時下のお話ですから、多分広瀬公使がおられたころのことかと想像するのです。それはそれとして、どうして三十一年あたりのが三十四年の今日まで延びてきたか。予算の関係その他いろんな理由があるでしょうが、どういうことかということが一つと、ハンガリーではナジの事件や何かで、大へん日本の一部では同情を買ったことがある。
○森元治郎君 場所がベルグラードで三十一年という戦時下のお話ですから、多分広瀬公使がおられたころのことかと想像するのです。それはそれとして、どうして三十一年あたりのが三十四年の今日まで延びてきたか。予算の関係その他いろんな理由があるでしょうが、どういうことかということが一つと、ハンガリーではナジの事件や何かで、大へん日本の一部では同情を買ったことがある。
従って政府といたしましても、昨年の通商交渉の場合におきましても、こちらから広瀬公使をモスクワに出しまして、あらかじめ予備会談をいたさせて、そして通商協定ができる、相談に乗っていけるという見通しをつけましたもので、九月から開いたわけでありまして、政府としても決して熱意を持ってないわけではございません。
この間ソビエトとの通産協定をやった広瀬公使は、今度ベネズエラの公使になる。これでは、外務省内の昇進とか人事配置等が常に外交官を永久に見習いにしておくのじゃないかと思う。やはり一個所に長く置くようにせねばいかぬと思う。国内の行政官との振り合いもあると思うけれども、一番の根本は外交官に限り、地位と給与とを切り離してみたらどうか。
しましては、大体新聞等にはかなり外務省の方から詳細に発表して参りましたので、一応の外形的なことを、あるいは御了承いただけたかとも思いますが、もう少し詳しく申し上げますと、今年の初めのころに、政府といたしましては、積極的にわが方からイニシアチブをとって日ソ貿易を促進させたい、こういう希望を定めまして、ソ連の方にこの方針のもとに調査団を送るというようなことも申し入れまして今回の交渉のわが国の全権をやりました広瀬公使