2015-05-28 第189回国会 衆議院 政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 第3号
副総裁は平沼騏一郎でございます。
副総裁は平沼騏一郎でございます。
ちなみに、まあうんちくを披瀝するわけじゃないんですけれども、この二つの事件は、検察側は平沼騏一郎さんが中心になっている、両方とも。それから、弁護側は花井卓蔵等の大変明治の非常な力のある弁護士として有名な人、こういう人たちが弁護団を組んだ。こういう点では非常にインセンティブを政治の世界に与えられるような大変大きな意味を持った事件であったようでございます。
それから、五カ条の御誓文であろうと思いますけれども、平沼騏一郎内閣総理大臣が引用された例があります。戦後の施政方針演説の中では確かにありません。 ただ、戦後、実は、一九九七年だと思いますが、参議院の自民党の竹山裕さん、私自身も当時参議院の方におりまして、本会議で今上天皇の御製を引用された例があります。
第二次大戦終結のときの平沼騏一郎枢密院議長は、おじい様でいらっしゃいますか。(平沼委員「ひいじいさんです」と呼ぶ)ひいおじいさんでいらっしゃいますか。
橋本総理、犬養毅、平沼騏一郎以来四十八年ぶりの岡山県出身の総理大臣誕生ということで、まず同郷の政治家として心から御激励申し上げます。 日本も世界も大変な転換期ですね、今。しかも積年の矛盾が噴き出してきている。その後始末、これはなかなか大変。しかも、単に後始末じゃ済まない、次のレールに乗せていかなきゃならぬという大変な時期で、大変な御苦労と思います。
このときの審議録をちょっと読んでみたのですが、貴族院で、当時の内閣総理大臣は平沼騏一郎首相ですね、その御発言が残されております。
かつて独ソ不可侵条約が結ばれたとき、平沼騏一郎内閣は不可解であるという一語を残して内閣総辞職をしたわけでありますが、ヨーロッパ情勢に疎いことは日本全体がという意味で申し上げておるわけで、もちろん私も含めてでございますが、余り三〇年代と変わらないんじゃないかという気がいたしております。
その批判の第一人者は当時の検察庁の大御所と言われた平沼騏一郎、それからいま申し上げました塩野季彦、この派につながる検事なんであります。この検事は一様に激怒した。怒ったんですよ。
小原さんが美濃部さんを起訴猶予にしたことに対して、検察内部で塩野さんやあるいは平沼騏一郎さんにつながる派閥の検事が非常に色をなして憤慨した、そこに検察陣営内部における派閥の動きを見ることができた、こういう歴史的問題を私は聞いているわけなんです。これをどう考えるか。いまでもそういう傾向があるのかないのかということを聞いているわけなんです。ありませんか、それは。
かつての歴史の中で、有田八郎という方が大島という大使の言うことを聞いて日独防共協定というものを結んだときに、今度は独ソ不可侵条約というものをドイツが結んだことで、平沼騏一郎という人が、世界情勢奇々怪々と言ってやめていった。
行ったら、真っ青になって身をふるわせながら、国の滅ぼす者は松岡洋右、平沼騏一郎、近衛文麿、こう言って涙を流さんばかりにして町村さんに教えたという。いま、三国軍事同盟のときのあの新聞の状態を見てみなさい。何でもかんでも三国軍事同盟。いまの新聞を見てみなさい。一緒じゃないですか。ただ、非常にいいことは、国民が冷静です。尖閣列島一つの問題をとっても国民は冷静です。
ドイツが、防共協定を日本と結んだあと、独ソ不可侵条約を結んだために、当時の平沼騏一郎総理大臣は、世界情勢奇々怪々なりと言って内閣を投げ出したわけでございます。 ドイツは、やはり日本を裏切りませんでした。ドイツとともに、その後、戦争に入りましたが、日本は、ドイツに裏切られたと見て、日ソ不可侵条約というのを結びました。
記録、文献によりますと、平沼騏一郎検事総長と協議の結果、政界を去り、引退し、謹慎する、こういうところまで内務大臣が言って、ここで諸般の追及手続が遮断されております。同僚であり、お互い個人として信頼する仲で、情においてはそれはほんとうに忍びない。けれども、憲法を守り、筋を通したい、行政、司法、立法の三権分立の精神を通したい。これに徹しておったのが尾崎司法大臣であろうと私は思います。
何だか新聞によりますと、原敬の日記だの、それからもう一つは平沼騏一郎の回顧録、そういうものには、そのときに自分たちは彼ら大逆事件の連中を殺さなければならなかったという事情が書いてあるそうです。私それは見たことがないのですけれども、新聞にははっきり原敬と平沼騏一郎の名前が出ています。それは軍の要請あるいは強制によって、死刑ということを決定したということが考えられる。
それから、このたびのドゴールの中国政権承認は、確かに外務省にとっては寝耳に水のことであって、さっき私はちょっと冗談で申し上げましたように、平沼騏一郎が生きていたならば複雑怪奇とわめいたであろう、こう言いましたが、多少神秘的なインプレッションを与える人柄であるということを外務大臣は言われましたけれども、私は魅力ある人物だと思っております。神秘的とは思いません。魅力ある人柄の人である。
この急湍怒濤の世の中ですから、動脈硬化の平沼騏一郎枢密顧問でも生きておられれば、複雑怪奇とわめくところでしょうけれども、論理を明らかにすれば必ずしも怪奇ではない。それ相当の論理をもってやはり世界の情勢は流れておる。複雑怪奇と目に映り、そして情勢を把握できないのは、情報が足らない。一体どういうところに問題があるか、これは私は心がけが悪いことも一つの原因だと思うのです。
しかも裁いた平沼騏一郎が、一つは行政官であり、一つは司法官であった。そういう矛盾の中で事件がきわめてあいまいに処理されておる。そして後に平沼騏一郎の回顧録にも出てまいりますが、あの中で、少なくとも三人は冤罪であるということを、彼は回顧録の中で言っているわけであります。それから「原敬日記」をずっと読んでみますと、「原敬日記」の中におきましても、これは山縣の陰謀だとはっきり言っております。
その中に、「最近東京地検ノ某検事が故老ノ法律家ノ録音ヲ取リ後世ニ伝ヘタイ企テ平沼騏一郎——録音ヲ取ツタ夫ニ依ルト平沼君ガ幸徳事件ヲ悔ヒ彼ノ事件ヘ済マナイ事シタ誠ニ可恥事タト後悔シタ僕ハマダ其録音ヲ聴カナイカ僕モ録音ヲ取ラレタ平沼ハ正直ナ人ダカラ白状シナケレバ気ガ済マナイダロウ事件ノ関係者皆然リダ」こういうふうな文言があるわけですが、これはあなた方の調査によると、平沼騏一郎氏の録音というのは、例の戦犯
○猪俣委員 そうすると、結局この手紙の中にありまする平沼騏一郎の録音をとった検事というのは、現在東京地検の河井検事であるという調査であるわけですか。これについて鈴木義男氏も証明書を出されておるようですね。
あるいは事務局長兼副会長は、戦前のいわゆる融和団体である、なくなられた平沼騏一郎氏が会長であった日本融和協会の役員でありました広島県出身の山本正夫、こういうような人たちが、十一日の発会式を終わったあとで厚生省で会議をされておる、こういうことも私らの方に実は耳に入ってきておるのであります。
たとえば、最も極端な時代、いわゆる軍国主義の時代における宗教、あるいは大正時代の非常に自由主義の勃興した時代における宗教、あるいは明治の初年における宗教に対する考え方、そういうものでいろいろ宗教に対する考え方が違ってきていると思うのでありますけれども、その間において、たとえば平沼騏一郎というような方々の御意見等をわれわれ学生時代に承わったのであります。
それでも軍閥当時の政府は、平沼騏一郎氏を中心にする財団法人のいわゆる官選の一つの融和団体と統合するために、いや応なしに大和報国会というものをつくつて、完全に日本の団体を全部つぶした。これはみな治安維持法から来ている、そういう苦い経験は幾らもある。
○圓谷委員 先ほど安藤さんのお話のうちで、平沼騏一郎さんは神社は宗教でないとこうおつしやつたと申したが、あなたのおつしやる神社は宗教的な教派神道を申されているのか、また従来日本の国家が管理しておつた神社、官幣大社とかその他いろいろありますが、それらのものがはたして宗教であるという御見解ですか。