2007-12-05 第168回国会 参議院 国際・地球温暖化問題に関する調査会 第4号
実は、振り返りますと、平安朝以来、日本には物語絵という大きな伝統がありまして、物語を絵にして、そしてそれを読み、かつ見せるという太い流れがございます。さらに、今漫画と呼ばれている絵は、ほぼ輪郭線によって物事を表現する絵画であります。陰影とか凹凸とかいうものがない、平たい絵であります。しかし、この輪郭線で描かれた平面的な絵というものは、実は浮世絵というれっきとした歴史を持っているのであります。
実は、振り返りますと、平安朝以来、日本には物語絵という大きな伝統がありまして、物語を絵にして、そしてそれを読み、かつ見せるという太い流れがございます。さらに、今漫画と呼ばれている絵は、ほぼ輪郭線によって物事を表現する絵画であります。陰影とか凹凸とかいうものがない、平たい絵であります。しかし、この輪郭線で描かれた平面的な絵というものは、実は浮世絵というれっきとした歴史を持っているのであります。
鎌倉幕府の成立から約四百年ほどさかのぼりますと、今度は平安朝ができました。 平安朝以来のまず最初の四百年において、日本における権力の源泉は何であったか。それは、皇室、天皇との血縁関係というのが権力の源泉であるという貴族政治の時代が我が国において四百年ほど続きました。
奈良朝、平安朝、都の南の森に精神の一番の中心がある、守ってくれる中心があるというその信仰が今に続いていて、それが評価されたということでございます。木の文化でございます。 腐っている山、これは山から材が出ないからです。間伐が進まない、木が利用されない。なぜそういうふうになってしまったか。そこを手当てすれば多分山はよみがえるはずでございます。 今林野庁長官がいろいろ施策のことを言われました。
日本の伝統文化について議論すれば切りがありませんが、およそ皆さんが考えていらっしゃるのは、平安朝から鎌倉にかけて生まれてきたある種の生活習慣、あるいはそこから生まれた芸術文化というようなものであろうかと思います。
あの平安時代、三百九十八年続くわけでございますけれども、この四百年間に随分といろいろなことが変わるのでございますけれども、それでも、平安朝にいる限りやはり王朝文化から出られない。平清盛の力をもってしてもできなかった。ところが、鎌倉に移転しますと、旧来の公家さん、貴族の人脈と武士の人脈がばんと切れたものですから、一遍に世の中が変わる。同じことは明治維新のときにも起こりました。
私は、こういう女性学を専門としてきておりましたから、日本の女性の歴史、女性の権利の解放の歴史といったようなもの、日本の女性には、世界から見れば、平安朝の女流文学、源氏物語だとか枕草子、こういった女流文学は世界で類のない歴史です。ですけれども、そういうのが生まれたのも、室町時代まで日本は原始社会の母系制がずれ込んでいた歴史がある。
すなわち、日本におきまして文献によってわかる時代、つまりは奈良、平安朝以来今日に至るまで、日本人には神社や神道に対する崇敬の心がずっとございます。もし国家神道が作り物であるとするならば、昭和二十年の敗戦後、国家神道の解体とともに神社や神道に対する崇敬の念は消えたはずです。けれども、以来五十年を経ました今日でも、日本人の神社や神道に対する崇敬の念は変わっておりません。
これは想像上の動物でございますが、頭は猿、手足はトラ、体はタヌキ、尾っぽは蛇、声はトラツグミに似ていると、平安朝、それも近衛院の時代にうし三つ時に京都の国民を脅かしたと、こういう怪獣でございます。 私はぬえという話を聞くと何となくこの細川内閣に似ているような気がいたします。
しかし、私は、昔の平安朝の時代に活躍をされた女性の皆様方、源氏物語を書いた紫式部、そういった方とか清少納言、そういうものを読ませていただきますと、いかに女性が繊細な感覚をお持ちになってああいう文学面でいろいろと活躍をされていたか、あるいは当時の女性の方々が政治面でも活躍をされておったかということをよく承知をしておるつもりでございます。
時間も限られておりますので、特に滋賀県は、いわゆる東海道、それから中山道の両方を抱える、いつの時代の歴史にも、戦国時代、もっと前の平安朝の時代から含めまして、常に道路として登場をするという、まあ人物的には余り登場しないですが、かなり歴史上の要所である。
○政府委員(宮尾盤君) 歴史的な問題として確実なその資料というものがどういうところであるのかというのはいろいろあれでございますが、先ほど私が申し上げましたように、いろいろな歴史書等でも確実にその記述があるようなものの記録を見ますと、即位礼というものが奈良あるいは平安朝のころから践祚の儀と分離して儀式として行われる、そのときに高御座というものが即位の儀に天皇の御座として用いられてきた、こういう長い伝統
○政府委員(宮尾盤君) 即位の礼というものの沿革でございますが、いわゆる昔は即位の礼、御即位と践祚というのは未分離の状態であったというふうに言われておるわけでございますが、即位の礼が践祚の儀と分離をいたしまして、いわばその儀式として定着をしてきたのは奈良時代ころからであったというふうに言われておりまして、平安朝の初めに現在のような、現在といいますか、平安朝の初めころからずっと即位の儀という形で、例えば
○日笠分科員 平安朝の絵画が専門じゃないのですか。そういう方がインド美術がわかるかどうか、それはわかるのでしょうけれども、専門外だと識者の間では言われております。その方が、現物を見ずに、アメリカで三カ所で展覧会があったそのカタログを見て、これはすばらしい、こう感じたのだと言われておりますが、この室長さんは現物をその目で見たのですか。
また、「女性は無邪気さを加味して平安朝型がよろし」としていますが、後年の静香子夫人にその望みを果たし得たとも言えましょう。 多情多感な青年であった君は、人並みすぐれた強い肩を持ち、野球のキャッチャーとして、しゃがんだままでセカンドまで矢のような球を投げるのでした。その強肩にほれ込んだ陸上部は、君にやり投げを託しました。君は黙々と毎日南グラウンドでやりを投げておりました。
平安朝やローマで……幾ら元禄時代があったとしても、あれはもう一部の貴族だけで、一般庶民はそうじゃなかったんですね。 そこで、ちょっとはしょりますけれども、現在GNPの問題で、四%だ三%言われるんですが、これは生産サイドの問題なんですよ。消費者サイドにとってはGNPにカウントされないものがうんと影響があるんですね。例えば土地の値段が幾ら上がったってこれはGNPに関係ないですよね。
平安朝からずっと長い間なかった。そういう国家防衛の軍というものが出てきたのは、恐らく蒙古襲来のときと、それからあの尊皇攘夷が出てきたころのことで、それまでは鎖国とか、他国との関係は余りなくして、対明貿易であるとか、あるいは出島を通ずる貿易であるとかということで、日本は極東で孤立しておったと思うんです。
これは昔、唐のころ、あるいは新羅のころ、日本からみんなただで——歴史の文献を見ますと、ただで外国に行っていろいろ教えていただいて、また戻ってきて、それが日本の奈良朝文化を発展させ、平安朝文化を発展さしたということが教えられておるわけでありますが、今日これだけ日本の国が高度成長したのでありますから、私はASEAN諸国の関係あるいは発展途上国の関係の留学生くらい——こんなことを言っては悪いのですが、金にすれば
それからこれはイギリスの教科書でございますけれども、奈良、平安朝時代があたかも現代の日本みたいな形で紹介されている。それからこれはレバノンです。けれども、これも最近の東京という形でこういう明治時代の挿絵が挿入されているわけです。——これをちょっと大臣に見せてください。
御記憶だろうと思いますが、われわれ富士山と言えば秀麗なる山、そして田子ノ浦と言えば平安朝の昔から歌に歌われたながめだった。ところが、田子ノ浦というのはヘドロの海と化し、田子ノ浦付近は悪臭ぷんぷんとする町になってしまった。これはあなたが市長さんのときです。やってしまった。もうもとに戻らないのです。
もう一つ、明治になって一世一元が打ち立てられたと、これで性格一変とおっしゃるわけですけれども、一世一元というものは、これは明治になって初めて打ち立てられたものでは必ずしもないわけでございまして、これも御承知かと思いますけれども、平安朝初期のころ、前期のころは桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇ですか、あのころはずっと一世一元だったんですよ。
このことから、われわれといたしましては、平安朝以降の歴史上はほとんどその方式にしている踰改元の方式を政令公布の時期の工夫等によって採用し、実質的にそうなるような方向へ検討すべきだと存じます。 第三に、文化の国際交流の視点からも元号の使用は国民に絶対に強制してはいけません。