私、奈良市の平城京近くに住んでおるんですが、この近くには歌姫町、山陵町という古い町があります。決して不便な町ではないんですが、随分人口が減っておりまして、特に若者がいない、子供がいない、一学年で小学生が一人もいない、そういう町でありますが、新しい町の開発が認められない地域、つまり市街化調整区域となっているわけであります。
それに加えまして、地域放送局から海外への情報発信というのも是非やっていただきたいというふうに思っておりまして、余り地元のことをお話しするのも恐縮でありますが、私は奈良県の選出でありますので、平城京として栄えた奈良県には様々な世界遺産、それから国宝、重要文化財など、すばらしい文化がありまして、そういうものを世界に発信をしていただきたいなと思っておりますが、この点についての取組について、もう時間もありませんので
先月、三月二十四日でございますが、私の地元奈良で平城京歴史公園が装い新たにオープンとなりました。池に浮かぶ遣唐使船がこの目玉でございます。これは、二〇一〇年の平城京遷都千三百年祭に続く第二弾の大きなイベントと言えるものでございますが、私が事務所を構えております近鉄奈良線大和西大寺駅、この駅が最寄り駅でございますが、この駅から会場の朱雀門ひろばまで実際には徒歩で二十分かかります。
この遺構表示エリアは、主要な遺構についてのわかりやすい表示や解説等を通じ、往時の平城宮における形態や役割を学ぶとともに、周囲の山並み等の眺望とあわせ、平城京の広がりを体感できるエリアとする方針となっております。 今回の舗装につきましては、この方針に基づき、平城京の広がりを体験できるよう、広場整備の一環として行ったものです。
二〇一〇年に奈良平城京大極殿が完成し、往時の姿そのままに復元をされました。こうした文化的意義のある建造物を、伝統的な特殊工法や技能を用いて復元するプロジェクトを立ち上げてはどうかと提案を申し上げる次第でございます。 全日空でかつて機内誌で「翼の王国」がございますけれども、日本の城の連載を特集されていた記事を、私も大変に、魅力とそして夢のあるその連載に心を弾ませて読んだ記憶がございます。
さらにその前になりますと、奈良の平城京があるわけでございます。我が国は、天皇の遷都宣言に基づいて、天皇が移り住まれてきました。 明治天皇が東京にお移りになってから百四十年以上がたっております。東京は、その後に大変な経済発展もなし遂げ、そして今や政治の中心地になっていることは明らかであります。しかし、日本の首都は、実際、法律上で明記されていることはございません。
例えば、古事記は、和銅四年、七一一年九月十八日に、遷都翌年の平城京、これは奈良市ですが、元明天皇が太安万侶に対して稗田阿礼の朗誦した旧辞からの選録を命じ、翌年七一二年、本年が千三百年紀でございますが、一月二十八日、太安万侶が古事記三巻を献上いたしております。
五十年間学習してでき上がったのが、七一〇年の平城京です。これは唐の都のミニチュア版を日本につくったわけですね。言いかえたら、律令国家、唐の制度をほぼ、相似たものを日本自身がつくるということによって、当時、唐文明は世界最高の文明だったんですね。ローマ帝国崩壊後、唐文明が一番力強い、高い水準のものであった。その世界水準に日本がほぼ並んだ、上がった。
実は、私が卒業した橿原市立鴨公小学校というのは、七一〇年に平城京に遷都されておりますけれども、その遷都される前の藤原京の大極殿の跡にございました。私が今暮らしている二条町というのは、私の家から百メートルで平城京に達します。家三軒で平城京。それに限らず、例えば東大寺でありますとか法隆寺でありますとか世界遺産が県内に三か所ありまして、国宝は東京、京都、奈良というふうな順番で数もたくさんあります。
馬淵大臣の御地元である奈良、平城京。これも輸出することはできません。米長さんのところも、私は富士山があるところに住んでおりますけれども、富士山も輸出することはできません。まさにこれは外から来ていただいて、日本のその地域に根差した資源を生かしていくという意味で観光が大変重要であると。
先日、文化庁が主催をいたします平城京遷都千三百年、第一次大極殿の落成式に行きました。中川文部副大臣がお見えでございました。
つまり、全人格的な雰囲気もそうですし、それからエコロジカルな状況もそうですし、とにかく、土地の相を見て先人は平城京も平安京もつくって、そして首里城もあそこに建てたわけですね。竜脈がそこに、エネルギーが土地からわいてくるから、そこでガバメントをつくったということで、あちこちそうなんです。 ですから、土地の相を見て、地霊と対話して基地もつくっていかなければならないんですね。
先ほどちょっと会長さんもお触れになったんですが、ことしは奈良の平城京の遷都千三百年にも当たるということで、この「日めくり万葉集」はこれからどんな展開を予定されているのか、ちょっと教えていただいたら、歌でお返ししたいなと思います。
その中には、当然、平城京の様子やそういうものを重点的に特集するようなものも考えております。 以上でございます。
ことしが奈良平城京千三百年と言われていますが、平城京の前は天智天皇の大津京。大津京は、白村江の戦いという百済・新羅の戦いで負けました百済の人が亡命して、天智天皇にいろいろアドバイスをして都をつくったということのゆかりでありまして、文化的にも歴史的にも非常に縁の深いところに過ごしました。子供のときは、いわゆる在日の友達がいっぱいいました。
御指摘の市庭古墳につきましては、史跡には指定をされていないわけでございますが、学説によりますと、御指摘のように五世紀前半の築造であるということでございまして、平城京造営時に前方部が破壊をされたというふうに学説上はされていると承知をしてございます。
○吉井分科員 次に、文化庁の方に伺っておきますが、昨年六月二十四日の内閣委員会で質問をいたしまして、平城京の五世紀の前方後円墳、市庭古墳の問題を取り上げました。 市庭古墳は、現在、円形の墳丘しか残っていないので円墳のように見えるんですが、奈良国立文化財研究所による平城京の発掘調査の結果、八世紀の初めから始まった平城京の造営によって壊されたと。
平城京も千三百年のときを迎えまして、そこにはいろいろな問題があることも承知しておりますが、やはり国民全体の貴重な財産を守るという観点、この観点を持ちながら適切な対応をしなきゃいかぬ、私もそのように思っております。
○高杉政府参考人 平城京の造営につきまして、そこの中でどのような工事が行われたのかということについてはつまびらかでない部分というのがございますが、続日本紀によれば、平城京の建築というのは七〇八年から始まったと考えられておりまして、広大な平城京におきましては、大極殿などさまざまな建造物の造営がなされたため、遷都をした七一〇年以降も造営は引き続き行われていたものと思っております。
そして、七一〇年に平城京ができたわけであります。それからちょうど千三百年目というのが、来年の二〇一〇年でございます。やはり我々奈良に営みをさせていただいている者にとっては非常に大きな幸せであって、感激であると思います。
○金子国務大臣 鍵田委員が、平城京千三百周年を迎えるに当たりまして、本当にこの事業を迎えるためのいろいろな準備をされてきた、先頭に立っておやりになってきた。先ほど御指摘いただきましたような京奈和自動車道についても、本当に御苦労をされてきた。ただ、まだ残されている部分がある。
大和北道路全体十二・四キロのうち、今回事業の対象とさせていただいているのは南側の六・三キロ、これは大和郡山から奈良インターまでの間、これを主に高架構造で事業化させていただいて、今、委員御指摘の平城宮の跡地、そこに該当する部分については、とりあえず高規格としての事業化は見送りまして、県、市で街路事業をやっていただいて、その部分は当面街路でしのぐという計画になっておりまして、平城京跡地に大きな影響を与えるような
昨年の二月、当委員会で福田首相に、平城京跡の埋蔵物遺産が破壊されるなど、世界遺産にふさわしくない事態、悪影響を及ぼす可能性がある、そういう意味での有害な道路はやめるべきであるというように指摘をしました。
ここの場所は平城京と恭仁京との中間に位置をして、当時の幹線道路に近いところだけに歴史的にグレードの高い遺跡と思われます。 木津川市は、平成十九年三月に合併をして新しい市となりましたが、市内には、恭仁京を初め、浄瑠璃寺、海住山寺、蟄満寺などの国宝を有しており、当時の天平文化を伝える重要な地であり、折しも二〇一〇年には隣の奈良で平城遷都千三百年事業が計画されております。