2019-06-03 第198回国会 参議院 決算委員会 第9号
徳川幕府時代に毛利藩によって開墾され、年間穀物が千石取れていたことから千石台と名付けられた。戦後の苦労は大変なものですよ。
徳川幕府時代に毛利藩によって開墾され、年間穀物が千石取れていたことから千石台と名付けられた。戦後の苦労は大変なものですよ。
士農工商や数々の制度を残したまま幾ら将軍の顔を替えても、五代将軍、六代将軍、七代、八代、幾ら顔を替えても何の改革にもならなかった徳川幕府時代のようなことではどうしようもないではありませんか。要するに、スローガンだけ似せてもどうしようもないということであります。 政権に就いた政党がひどい政治を行っていると、次の選挙で国民からノーを突き付けられます。
現在の都道府県についてもそのような批判は当たりますが、これは、江戸幕府時代以来のさまざまな歴史的な経過、あるいは地理的な一体性を持っている、あるいは文化的な背景があるということの中で、これはそれなりの意味があると考えております。 これからの問題は、地方分権が進む中で、地方と国とのかかわり方が大きく問題になろうかと思っております。
これはもう、実は北方領土、今、日本が言っている北方領土というのは国後、択捉、それから歯舞、色丹、これはもう幕府時代から、徳川時代から日本人が自分の領土、自分たちの領土だということでそこに住み着いて利用していたところであって、北千島とは全然違うんですね、北千島とは。南千島、日本領土、北海道の一部と、蝦夷地と言っていましたが、蝦夷地の一部ということだったんです。
それともう一つは、昔は京都に天皇陛下がいらっしゃったわけでございまして、まさに、東京のど真ん中にいらっしゃる場合と京都にいらっしゃる場合とでは、天皇へ対する認識というのが大分、戦前の、戦前というか徳川幕府時代までの天皇に対する国民の考え方と現在の国民の考え方では大分違ってきているんじゃないか、こういうようなこともやはり考えざるを得ないと思います。
その薩摩琵琶歌には「目出たやな君が恵みは久方の」「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで命ながらへ」「尭舜の御代もかくあらん」云々とありますから、この文脈に見える「君」は、江戸幕府時代であってもなお京のみかどを指していたと思われます。
徳川幕府時代には各藩なりのそれぞれ藩校というものがあり、また、家庭には家庭のそれぞれ独特のものがあり、さまざま多様な人材が育っていった。 振り返ってみて、私は、政治家としてどんな心構え、どんな教育を受けてきたんだろう、こう思いながら、まさに自分で見よう見まねでやっていくしかないな、こういうふうな思いをしたわけです。
私は、ずっと有史以来教育が続いていって、例えば江戸幕府時代の寺子屋時代に、読む、書く、あるいはそろばん、そういう基本的なことからスタートをして、すごい有為な人たちがいっぱい出ておられるな、こういう気がするんですね。
東京は、江戸幕府時代の約二百六十余年間を含めて四百年もの長い間我が国の首都であり続け、政治、経済、社会、文化、教育等々広範な分野で欧米先進諸国に追いつけ追い越せの合い言葉のもと、すべての日本国民の牽引車の役割を担ってきたのも事実であります。
日本は、こういう長い歴史と狭い国土、それから東京は江戸幕府時代を含めまして三百八十年余り日本の政治権力の中枢都市であった。明治維新後は天皇家もここに移転せられて、以後、経済の主要機能もここに流入いたしまして、今日の一千万云々の人口を擁する過密都市東京ができ上がった。
○東家国務大臣 いろんな方々の御意見の中に、江戸幕府時代は年貢を納めて、地方がそれぞれの財政から各般にわたる行政を取り仕切ってきた、明治になってから中央にそうした権限が集中した、戦後の今日までの経済大国に発展するまでにはそうした中央官庁の役割というものは、大変な重要な役割を果たしたものと私どもは考えております。
これは率直に言わせてもらうけれども、とりわけ今北海道の方々から声が出ているのは、我々民間がここまでやったり自治体でこれだけやっているのに、何だ、旧態依然として徳川幕府時代の鎖国政策で、変わったと言うのは日本の外務省ではないか、こういう声すらあるんです。
だからこういうことからすると、そうガードをかたく、かたくというようなことばかりではなくて、やはりこの前もどこかのテレビで、鎖国か開国かなんて、単純労働者を入れないのは徳川幕府時代の鎖国になぞらえたみたいな題名の議論がありましたけれども、大臣もきょうの提案理由の説明の中でおっしゃってみえておるのですが、単純労働者の受け入れの問題についての話ですが、「広く国内関係方面の意見を見きわめつつ、長期的視野に立
鎌倉時代、足利時代、徳川幕府時代はもちろんのことであります。そういう天皇のあり方を変えたのが明治維新であります。しかし、あの明治憲法下のような天皇あるいは天皇制の姿が本当に日本国民の歴史と合致するものであるかどうかということは、歴史の上でも政治の上でも十分考えてみる必要がある、私どもはこう考えております。
これは、あるいは徳川幕府時代からのいろいろな空気がそのようなものを醸したのかもしれない。 私は、この条約が締結されることは大変うれしいことではございますが、戦後、靴下と女は強くなったとか言われる中で、男性がひ弱くなったとかいう言葉もちまたに聞かれます。こういうことを思いますときに、しつけというものが大変大事ではないか、そして、しつけていくところの要素は母親にあると思うのです。
昔から放火事件なんというのは、江戸幕府時代から御承知のとおり市中引き回しの上首をちょん切ったんだ。一体罪名は何で起訴したのか。
○国務大臣(竹下登君) 日本の幕府時代は別として、いわば近代国家になった明治以後とでも申しましょうか、そういう際にいろんな政策転換がございますが、私は一度国会の議論を踏まえ、少なくとも借りかえ禁止規定をつけたものを借りかえ禁止規定を外し、そして財政の節度としてこれを訓示規定に移したということ、それから五十九年度の脱却から六十五年度への脱却に努力目標を変えたということ、この二つは大きな政策転換だと思っております
現在の日本の国土の面積は、北海道、本州、九州、四国、沖繩、それに若干の島々でございますが、これは考えてみますと、ちょうど江戸幕府時代と同じ国土の面積だと思います。江戸時代の人口が大体三千万と言われております。現在一億一千五百万、これだけの人口が同じ国土面積の中に生存し、そしてまた、しかも生活程度も上がっているわけでございますから、江戸時代のようなことを考えるわけには私はいかないと思います。
昔は、あんな小さい島でありますけれども、それこそ江戸幕府時代の鎖国時代から沖繩を通じての文化交流、そういったものが行われたことは歴史に徴しておわかりのとおりだと思うのでありますが、それが戦災で全部なくなってしまった。したがってその戦災によるところの旧文化財を復興しよう、復元しよう、こういうふうな機運がいまあるわけです。
本当に、何といいますか、昔の徳川幕府時代みたいに、とにかく国民あるいは住民というものを目下に置いて、そして権力でもって圧力をかけていくのをお上の仕事と、こう言うんです。まさにこの場合はそういうにおいがぷんぷんとするわけです。 これは営繕の方にも伺いたいんですがね、私は未買収地を視察してまいりました。この近くですから、車で走れば一時間あればもうくるっと回れます。
悪い言葉で言いましたら、牢送りをした上で、さらに所払いと、何かしら私昔の徳川幕府時代の江戸町奉行の裁断を聞いているような気がいたしまして、刑罰を与えて刑を受けさした上で、なおかつ日本から追っ払ってしまうというのは余りにも酷な話ではないかというふうに思うのでありますが、いかがでありましょうか。