1954-03-19 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第25号
なおその後、やはりあの海区で操業しなくても、あの海区に近いところを航行して帰つた船は若干の危険があると思われますので、全国で主としてまぐろ、かつお等が陸揚げされる港を五港指定いたしまして――なおこれは追加するかもしれませんが、さしあたり五港を指定いたしまして、そこで陸揚げするものにつきましては、厚生省と連絡して一応検査をする。
なおその後、やはりあの海区で操業しなくても、あの海区に近いところを航行して帰つた船は若干の危険があると思われますので、全国で主としてまぐろ、かつお等が陸揚げされる港を五港指定いたしまして――なおこれは追加するかもしれませんが、さしあたり五港を指定いたしまして、そこで陸揚げするものにつきましては、厚生省と連絡して一応検査をする。
それはおよそ何カイリくらい離れたところを通つて帰つた船かということも併せて伺いたいと思います。
さらに今回の李承晩ラインの問題が起きた際に、現に出漁しておりましてやむなく自分の母港へ帰らぎるを得なかつた、四月ごろからあの漁業に出張つておりまして、しかも二十万円以上の仕込みをして、いよいよ漁をしようというときになつて漁ができなくて、涙をのんでそれぞれ自分の港へ帰つた船がたくさんあるわけであります。
帰還いたしたものが八十九隻でありますが、このうち数日後あるいは一週間後に危険を冒して脱出して来たものが四隻、それから現地の軍関係が釈放してくれたものが三十六隻、その他に当時GHQを通じまして、この拿捕漁船の返還を迫りまして帰つたものが四十九隻、これが帰つた船の八十九隻の内訳であります。これらの船は全部韓国の軍関係の船が拿捕したのであります。
ところが船の中で、すでに看護婦さんから、この前帰つた船でも日の丸梯団というものを組織いたしまして、みんなここに日の丸梯団の腕章をつけたということを聞いて、それじやみんなもここのところにつけようということになつたのですが、それが舞鶴に来て、新聞記者が飛んで来たり、いろいろするうちに、日の丸梯団の待つ大きな意義というものが久保田自身もはつきりつかめたのではないかと思います。
最初これらの人々は、この五月の六日に帰つた船なんかの状況を調べて見ますと、昨年の九月にナホトカ港へ到着をしながら、これはまだ本当の民主化していないというようなことを口実にいたしまして四回も往復させられた例があります。