2018-03-20 第196回国会 参議院 外交防衛委員会 第3号
いろんな考え方があって、私の場合は、何遍も言いますが、師匠力道山が北朝鮮の生まれで、戦前、相撲取りで連れてこられたという、そういう関係で、師匠に対する思いというのが非常に、あの国の、やっぱり儒教の国というか、その辺の表面的な、あるいは拉致の問題も含めて議論されますが、その辺のやっぱり国民の歴史というものを勉強しながらその国を理解していかないと、なかなか、いざ対話の場が開けたときにその辺の向こうの気持
いろんな考え方があって、私の場合は、何遍も言いますが、師匠力道山が北朝鮮の生まれで、戦前、相撲取りで連れてこられたという、そういう関係で、師匠に対する思いというのが非常に、あの国の、やっぱり儒教の国というか、その辺の表面的な、あるいは拉致の問題も含めて議論されますが、その辺のやっぱり国民の歴史というものを勉強しながらその国を理解していかないと、なかなか、いざ対話の場が開けたときにその辺の向こうの気持
今日は、本題に入らせていただきますが、一九六〇年の日本とアメリカの日米地位協定ということで、六〇年というと、私がちょうどブラジルから師匠力道山に連れられてきた年でもあるし、大変私にとっても意義の深い年であります。
(資料提示)思い入れでは別になくて、前にもいろいろなところでお話はしていますが、師匠力道山の思いを届けようということから、そこの年表にもありますが、九四年に訪朝したのがきっかけで、そのときに、歴史を振り返ると、力道山のやはり故郷に錦を飾れなかったという本当に思いを届けたということで、向こうの人たちが大変歓迎してくれ、二日間で三十八万人という九五年には大会をしました。
それで、私どもの師匠力道山に若い頃は屈伸運動を毎日千回、二千回やらされまして、膝はがたがたになって、同世代の選手たちはみんな旅立ってしまいました。 でも、ちょうど今年は戦後七十周年ということでいろんな思いがありますが、ちょうどこれからのまた新しい七十年に向けて、日本が新しくリーダーシップを取りながらも踏み出していかなきゃいけない年かなと思います。
その後、六三年に師匠力道山が亡くなりまして、単身でアメリカの修行に行きまして、本当に連日、言葉も分からない中で辞書を持ちながら手まねで生活をしたことを懐かしく思っていますが、そんなことから、一番外人選手に教えてもらった言葉は大変汚い言葉で、ここで御披露はできませんけど、そういう中で、私の経験でやはり言葉が大事だなということで。 今から四十年ぐらい前になりますか。
スポーツが果たす役割というのは、かつての師匠力道山が敗戦の中で勇壮で我々に夢を与えてくれたと。 私が二月の二十日の委員会で、我が国のODAにおいてスポーツの持つ力がこれまでどのように活用されてきたか、外務政務官にお伺いしましたが、その際は手元に資料がないということで十分なお答えをいただけませんでした。
よく、私がどうして北朝鮮にそんなに一生懸命なのか、あるいは北朝鮮に足を運ぶのかと聞かれることがありますが、私の師匠力道山は、出身地は朝鮮半島の咸鏡南道というところです。戦後、御存じのとおり、テレビに登場して、本当に敗戦の中で夢をなくした国民が力道山の勇壮を見て、そして元気と勇気、あしたの生きる力を与えてくれました。私もその中の一人です。