1990-05-24 第118回国会 参議院 文教委員会 第3号
○政府委員(遠山敦子君) 御指摘の東京国立文化財研究所、ここは、文化財に関します調査研究、あるいは資料の作成、公表等を使命としておりますが、前身であります帝国美術院附属研究所として発足してから六十年、戦後文化財研究所として設立されてから既に四十年ということで、建物も大変老朽化していることは事実でございます。
○政府委員(遠山敦子君) 御指摘の東京国立文化財研究所、ここは、文化財に関します調査研究、あるいは資料の作成、公表等を使命としておりますが、前身であります帝国美術院附属研究所として発足してから六十年、戦後文化財研究所として設立されてから既に四十年ということで、建物も大変老朽化していることは事実でございます。
それから日本芸術院につきましては、明治四十年に美術審査委員会官制というものが公布されておりまして、それが大正八年に帝国美術院規程というものに変わりました。さらに昭和十年におきましては帝国美術院官制という形になりまして、昭和十二年には帝国芸術院官制というふうにさらに改められております。
日本芸術院の沿革については、先生すでに御承知と思いますけれども、これは当初は明治四十年に美術審査委員会官制というものができまして、この美術審査委員会は、文部省美術展覧会、いわゆる文展の開設に伴いまして、その出品作品を審査するというものであったわけでありますが、大正八年に至りましてこれが廃止になりまして、新たに帝国美術院が置かれたわけであります。
○蒲生政府委員 これは実は歴史的に見まして御説明申し上げますと、大正八年に、先ほど申し上げましたように帝国美術院ができまして、当時は定数五十人以内でございましたが、これは美術部門だけでございます。
○高橋説明員 私が芸術院に入りましたのは昭和二十三年のことでございまして、あまり古いことは存じませんが、これは御承知のことと存じますが、帝国美術院が発展いたしましたものでございまして、最初は美術家だけのものでございましたが、その後になりましてただいまお話の文芸界の人たち、それから芸能界の人たち、こういうような者が加わることに相なりましたので、今日に至りまするまで美術家偏重と申しますか、美術家の数が芸術院会員中
○高橋説明員 先ほど来申しておりますように、これを引き離しますことにつきましてはいろいろ問題点があるのでありまして、その一部分はただいま野原さんがおっしゃったところでありますが、なぜ栄誉機関である芸術院が日展をやっていくのかということは、これは主として私は歴史にあることだと思いますので、私ども古いことはあまりよく存じませんが、文部省の展覧会が主となりまして、あるいは母体となりまして、帝国美術院というものが
次に、矢代君は、大正四年帝国大学文科大学を卒業し、東京美術学校、第一高等学校、東京高等師範学校等に教鞭をとり、又大正十年より同十四年に亘り、イギリス、フランス、ドイツ、イタリー、アメリカ合衆国に在留して、西洋美術史を研究し、昭和二年帝国美術院附属美術研究所設立に従事し、同研究所主任を経て、昭和十一年所長になり、十七年官を辞し、後に欧米各国博物館の調査に従い、現に国立博物館評議員の職にある者であります