2011-06-14 第177回国会 参議院 東日本大震災復興特別委員会 第2号
私にとっては、政治と金の問題は、最初に政治運動といいましょうか選挙のお手伝いをした市川房枝先生のときからの一つの課題でありまして、そういう点では、その問題が政治をゆがめないようにということでやってきたつもりであります。
私にとっては、政治と金の問題は、最初に政治運動といいましょうか選挙のお手伝いをした市川房枝先生のときからの一つの課題でありまして、そういう点では、その問題が政治をゆがめないようにということでやってきたつもりであります。
先ほど市川房枝先生の話を出しましたけれども、当時、いろいろな法律の中では、必ずしも、かなりのところまで派閥やいろいろなものがお金を使っても、それほど厳しい処罰はありませんでした。当時は、いわゆる秘書が捕まったとか、あるいは本人が逮捕されても、国会議員の資格は、裁判さえ長引かせておけば、任期いっぱい超えていけば、ほとんどの場合資格がなくなるということにはなっておりませんでした。
○菅内閣総理大臣 先日、「八十七歳の青春」という市川房枝先生の亡くなられて三十年を記念しての上映会がありまして、私も顔を出させていただきました。 私が選挙というものに初めて深くかかわるようになったのは、一九七四年の市川房枝先生の参議院全国区の選挙でありました。市川先生は、従来から理想選挙という言葉を使っておられました。
私も、先ほど三十年、四十年と申し上げたのは、今御指摘にあった、市川房枝先生の選挙の直後に、市川さんが最初に経団連に乗り込んだテーマが企業献金の禁止でありまして、一たんは、当時の土光会長が経団連が扱う企業献金、自民党への献金はやめるということを約束し、そこからまたいろいろな展開が始まったことを私もよく覚えております。
特にこの政治の社会、私も最初に選挙の応援をさせていただいたのが亡くなられた市川房枝先生でありますけれども、もっと多くの女性が国会にも地方議会にも出てきていただきたいと。党としても女性の候補者の拡大に取り組んでまいりたい、このように考えております。 残余の質問については、関係大臣から答弁をさせたいと思います。(拍手) 〔国務大臣与謝野馨君登壇、拍手〕
私の政治活動は、今をさかのぼる三十年余り前、参議院議員選挙に立候補された故市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年がジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました。そして当選直後、市川先生は青島幸男さんとともに経団連の土光会長を訪ね、経団連による企業献金のあっせんを中止する約束を取り付けたのです。
私の政治活動は、今をさかのぼること三十年余り、参議院議員選挙に立候補された故市川房枝先生の応援から始まりました。市民運動を母体とした選挙活動で、私は事務局長を務めました。ボランティアの青年がジープで全国を横断するキャラバンを組むなど、まさに草の根の選挙を展開しました。
○菅国務大臣 松あきら議員の方から、三十年前に亡くなられた市川房枝先生の名前を挙げてそうした質問をいただいたものですから、私としては、三十年前あるいはその少し前からのおつき合いでしたけれども、当時はまだ今ほど政治資金規正法もしっかりしておりませんでしたし、あるいは資産公開もルールがありませんでした。さらには政党助成金もなくて、多くの資金は、自民党の場合は財界等から調達をされておりました。
○国務大臣(菅直人君) 松あきら議員から市川房枝先生のお名前を挙げられて、政治と金についての見解を求められました。 市川先生は本院に長く御在籍され、カンパとボランティアの選挙を実践されまして、私も一九七四年の選挙のお手伝いをしたことがこの政治の道に深くかかわるようになったきっかけになりました。
しかし、じゃ国会で全く議論がなかったかというと、実は、ここに市川房枝先生の肖像画がありますけれども、市川房枝先生が質問されるなど、年に一回ぐらいずつ国会で審議をされてきた経過があります。しかし、残念ながら、国民の関心を呼ぶところとはなりませんでした。また、それはまた無理もなかった面もあったかもしれません。
それは後で、私が市川房枝先生の通訳だったときに、それは一九五二年だった、そのときにいろんなそういうことを教えてくれました、先生は。 人権について、私たち、それを書いたときに、もちろん理想的な憲法をつくりたいと思いまして、一番いいものを、人権、何でも入れたかったと思うんです。そして、私は、平和についてのクローズと全然何も関係がなかったんです、私はそれを書かなかったので。
私はまだ子供でございまして、母親がいそいそと選挙に行きながら、二名でしたか、とにかく連記制だったので、母は市川房枝先生の会に入っていたようなそんな女性じゃない、ごく普通の市井の主婦でございましたけれども、着物を着がえながら一言こう言いました。お母様は女だから一人は女に入れるわ。何でもない普通の主婦からそういう言葉が出てきたのでございますね。
この間の経過を振り返りますと、一番の端緒は、もう二十年前、市川房枝先生が選挙の結果に対して、一票の格差是正を求めて運動を起こされたわけであります。
我が二院クラブは、大先輩でありました市川房枝先生の時代から、政治の浄化と清潔な政治の確立ということについて長い間警鐘を鳴らしてまいりました。それだけに、今日の腐敗し堕落し切った状況に厳しい憤りを覚えるものであります。したがって、金権腐敗の状況と政治改革の問題から入ってまいりたいと思います。とりわけ政治浄化について総理の決意と責任。
最後に、私は今は亡き市川房枝先生の選挙運動を手伝ったことから政治家への道を歩み出した者でありますけれども、政治改革を生涯の目標とされた市川先生に満足してもらえるような政治改革が実現するよう、総理にも一層の努力を期待をいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。(拍手) 〔内閣総理大臣海部俊樹君登壇〕
例えば、亡くなりました市川房枝先生などが発議されまして、参議院で可決されながらも衆議院で廃案になりました恩赦審議会の設置や恩赦の範囲、基準について最高裁や国会が何らかの形で関与できるようにすべきだという、それについていろいろまた問題があると法務省がおっしゃっているようですけれども、今までのやり方の方がもっと問題だと思うんです。
その母は非常に楽観的な人生観、宗教観を持っておりまして、死ぬということは、くたびれたら休んで次の日元気になるのと同じことだということで、くたびれるまで生きていましょうということで生きておりますけれども、その母が、当参議院の大先輩である市川房枝先生が御存命のときに、仙台という地方の都市におりましたけれども、そこでいろいろ市川先生の御薫陶を受けて、婦人問題について、あるいは地方自治について、憲法について
それから、強い国の管理を受けている団体とか企業、つまり電力とか銀行ですね、これは特に政治献金をするのはおかしいんじゃないかという議論が起きまして、市川房枝先生が存命のころに私ども抗議に参りましたりして、電力はやめているわけですね、今も。ところが、銀行は都市銀行、地方銀行合わせて十五億近い政治献金を行っているわけです。
私どもは、一九七五年の国際婦人年に採択されました世界行動計画に対応して、民間の婦人団体も結集してこれに当たるべきであると、そういうことで、亡くなられました参議院議員の市川房枝先生のお呼びかけによりまして、四十一の全国組織の民間婦人団体が「国連婦人の十年」日本大会を開催いたしましたのがこのスタートのきっかけでございます。この日本大会には全国から二千三百人の婦人が参加いたしました。
こうして女性の問題が非常に大きくクローズアップして、この参議院でこういう公聴会が催されました本日、私は今振り返りまして、今この席に市川房枝先生がいらっしゃったらどんな感慨をお持ちかなとふと考えました。殊に中村公述人とはしばしば二院クラブでお顔を合わせておりますので、余計その感慨が強くなりました。 前段は抜きまして、本題に入らせていただきます。 皆さんの御意見はそれぞれ伺いました。
経過はさておくといたしまして、さかのぼってみますと、一番最初、昭和四十五年十二月十五日に参議院の予算委員会におきまして、当時市川房枝先生が次のように質問をされておりました。「国連総会で採択された人権に関する条約は十八あるのに、日本が批准しているのは婦人に関するもの、婦人参政権と売春禁止の二つだけというのは一体どうしたことでしょうか。
この中で、実は亡くなられたところの市川房枝先生がこういう発言をされているのです。 「いまの参議院でぜひほしいと思うのは、学者の方たちにもつと入ってもらいたいと思うのです。初期はある程度あったのですが、だんだんなくなってきた。二五年までは専門家の人がいて、そしてそういう人が委員長になってうまくいった」のでありますが、結局現行制度の中ではそういうことが出られなくなった。
まず、故市川房枝先生でありますけれども、選挙公報によりますと、「私の姿勢、立場、政策について」と題しまして次のように書かれております。「前と同様、参議院は無所属がよいとの信念から、無所属、革新として市民の立場にたち、」というようなきわめて明快な形で参議院のあり方を選挙公報でうたっております。