1947-11-01 第1回国会 衆議院 鉱工業委員会 第27号
その一班の班長は、帝大の工學部の教授をもつていたし、他の一名は炭鑛の經驗竝びに炭鑛と直接離れてから總括的にそれをみている經驗を約三十年ほどもつておられる、これは工學士の炭鑛技術者、これを班長にいたしております。他の一名はやはりただいま申上げたとほぼ同様の經驗をもつている現在三菱會社に籍をおいている技術者でありますが、もちろん會社の籍と何らの関係なく、技術界の一メンバーとしてそれに参加している。
その一班の班長は、帝大の工學部の教授をもつていたし、他の一名は炭鑛の經驗竝びに炭鑛と直接離れてから總括的にそれをみている經驗を約三十年ほどもつておられる、これは工學士の炭鑛技術者、これを班長にいたしております。他の一名はやはりただいま申上げたとほぼ同様の經驗をもつている現在三菱會社に籍をおいている技術者でありますが、もちろん會社の籍と何らの関係なく、技術界の一メンバーとしてそれに参加している。
山下興家さんは大學卒業以來滿鐵に入社、英米に出張、その後鐵道院の技師となり、大井工場その他の工場をまわつて、東京帝國大學の工學部の講師、それから鐵道省工作局長、しまいに商工省の生産管理委員會の會長となり、そこで高等官一等になられまして、退官後は日産自動車株式會社の取締役、日立製作所の取締役になられ、日本機械學會の會長、自動車交通審議會の會長、鐵道會議の議員、日本安全協會の顧問等をやつておられたわけであります
よつて東北地方の織物の中心地であるところの米澤へ工業大學、すなわちこの高等工業を工學部に昇格せられんことを熱望する次第であります。すでにこの企成同盟會が今一生懸命になつて、卒業生その他から一千萬圓を目標に寄附を募集しつつあるのであります。
それからもう一人の方は、林誠一さん、明治三十一年の七月の生れでありまして、第一高等學校の二部の甲類を卒業されて、それから大正十三年に東京帝大の工學部の電氣科を卒業されて、それから直ちに鐵道省に入つて、鐵省道の電力關係の技術家としてずつと活躍されて、その間、昭和十一年に鐵道の在外研究員として、米國及びドイツに向けて出發されて研究しておるということもあります。
政府は金澤醫科大學を根幹として、これに配するに第四高等學校を昇格し法文學部、高等師範學校を理學部、金澤工業專門學校を工學部にそれぞれ昇格し、縣立松任農學校を基盤として、水産學科を含む農學部を附設し、官立の北陸總合大學を設置せられんことを要望する。ということの要旨であるのであります。