2006-06-01 第164回国会 参議院 法務委員会 第22号
巣鴨からあそこへ移したんですけれども、私どもの先輩が移設反対運動をやったらしいんです、便利な巣鴨にそのまま置けと。何で川向こうの小菅、当時は今よりも高速道路もなくてうんと不便だったようですが、反対運動むなしく小菅へ移ったようなんですけれども。空調もない、設備もひどい状況であります。 現在の法務省の予算のうち、施設費はここ十年ぐらい一般会計で二百億円ぐらいで固定しております。
巣鴨からあそこへ移したんですけれども、私どもの先輩が移設反対運動をやったらしいんです、便利な巣鴨にそのまま置けと。何で川向こうの小菅、当時は今よりも高速道路もなくてうんと不便だったようですが、反対運動むなしく小菅へ移ったようなんですけれども。空調もない、設備もひどい状況であります。 現在の法務省の予算のうち、施設費はここ十年ぐらい一般会計で二百億円ぐらいで固定しております。
先日も申し上げましたが、巣鴨から小菅へ移ったときに弁護士会は猛反対運動をやった、先輩ですけれども。あの時代、まだ日本は発展途上にあったわけで、あの時代に旧江戸城の近くに政治が大拘置所を建設するということを決めておれば、随分様子は変わってきたと思うんですね。 勾留の裁判そのものは裁判官がなさるわけですね。
ちなみに、私が弁護士になったころ、当時、巣鴨の刑務所から今の東京拘置所へ移転するということになりました。先輩が猛反対運動をいたしました。私が弁護士になったときにはもう移転しておりましたが、その反対の理由は、何であんな田舎へ持っていくんだ、不便になると。まあ、巣鴨は、電車の便もいいし、タクシーで行っても近い。
そもそも、ナチスの自国民をも殺害をした犯罪行為と同列に扱うことはできない、こう思っておりますが、日本国との平和条約による極東国際軍事裁判所及びその他の連合国戦争犯罪法廷が刑を科した者について、その刑の執行が巣鴨刑務所で行われていた事実はありますが、その刑は、我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではないということでございます。
ところが、使いたいものがないと言うから、巣鴨のとげぬき地蔵まで、東京に行って、行ってこいと、あそこに行きゃあるぜって言って、この間行ったら、いやあ、あったと言ってえらい勢いでお土産いただきましたけれども。 私は、こういったものは明らかに変わってきておると思っております。これはもう数字の上ではっきりしておりますんで、二〇〇〇年から二〇〇四年間の間の伸びだって一割以上伸びてきておりますから。
ですけれども、これは巣鴨地蔵にお年寄りが行くという世界とはイメージが違います。僕らが年寄りになるんですから、僕らは老後になったときに村田英雄を歌ったりしないんですよ。サザンを歌ったりユーミンを歌うんですよね。そのまま六十、七十、八十になっていって移動していく世代の循環を考えなきゃいけないのに、何かありきたりの、もう何というか、ティピカルなというか、決まり切った年寄り像をイメージしていますよね。
例えば、佐世保の商店街、東京でいえば巣鴨の商店街。これは、いずれも高齢者に的を絞っておる。そういうところで共通点は、間違いなく対象者の高齢者にとって欲しいものを売っておる、かつ、二階、三階と上に伸びていかないで、ずっと延々と横に広がっているというのがこの二つの町における共通点だと思いますが、そういった意味では、都心に人が住まなくなっているというのは明らかにおかしいんです。
それから、巣鴨の豊島区の監視局、東京都さんの方でも行っております明治通りの西巣鴨局、この四つの局で行っておるわけですが、この一覧表をごらんになっていただきますと、その数値等につきましては、すべて長期的にはクリアしております。
というのは、ほかの北区役所の数値あるいは巣鴨の数値を見てもいずれもバツと丸がございますけれども、私どもは、王子線の開通によって大変な数値の増加を得たということではないだろうというふうに意識しているものですから、先ほどのような答え方になったということでございます。 したがいまして……(藤田(幸)分科員「今の質問について答えて」と呼ぶ)はい。
今御尊父の福田元総理のお話も出ましたけれども、一部の政治指導者は戦犯として巣鴨に入ったりしましたけれども、官僚機構は基本的に日本の場合おっしゃるように無傷であった。したがって、それが一九四〇年体制というので残っているので、それをたたきつぶそうというのが小泉改革のねらいだと思いますよ。
今井先生は、一昨年十二月二十二日、東京巣鴨の癌研究会附属病院において胃がんの手術を受けられました。一時は元の健康を回復されたかにお見受けいたしましたが、昨年四月には肝臓への転移が発見され、更には脊椎までも侵されていることをお身内にも打ち明けられておられたとお聞きしました。
どういうふうにこの町を作っていくのかということで、若者の町にするのか、あるいはにぎわい、ときめきの町にするのか、あるいは巣鴨のように高齢者の町にするのか。若者というと、池袋や新宿、原宿とか、ああいうふうな町にしていくのか、どうも町、どういうふうになるのかなと。あるいは鎮守の森を核としてこうやっていくのか。
二カ月前に実は九十三歳で亡くなられた大矢利助さんが、八八年に三和銀行巣鴨支店から四億円借りて自宅兼用ビルを建てたことから、言ってみれば不幸が始まりました。
しかしながら、サンフランシスコ平和条約第十一条がございまして、巣鴨であるとかフィリピンのモンテンルパ、マヌス島、オーストラリアでございますけれども、に千二百二十四名が戦犯として服役中であったわけでございます。 そして、当時の資料等を見てみますと、戦犯の釈放の一大国民運動が起きているわけでございます。
実は、私どもの調査はそれだけでは終わりませんで、もう一方、巣鴨のとげぬき地蔵、そういうことをしていないというか、あの昔ながらの町は大変ある意味でにぎわいがある、その差は一体何だろうということに注目いたしました。あるいは、商店街の活性化という意味では東京近辺では足立区に東和町というのがありまして、ここの町会長さんは大変アイデアを豊富にお持ちになっている。
とてもそれは今は想像できないんだけれども、しばらくして、巣鴨あたりまで酪農地帯だったというんだ。この永田町などもすぐそば。酪農地帯。だから、そういうようにだんだん広がって、しまいには全部宅地化になっちゃう。
我が国といたしましては、このサンフランシスコ平和条約第十一条及び平和条約第十一条による刑の執行及び赦免等に関する法律というものに基づきまして、連合国の最高司令官または関係国から身柄の引き渡しを受けた者に対しては巣鴨刑務所で残刑を執行したというふうに承知しております。
そして百二十五名が懲役二十年とか十年という刑を科せられた上、サンフランシスコ条約が締結された後も日本に帰されて巣鴨のプリズンで残りの刑期を服役させられてきたわけであります。その後、韓国へ帰国した人を除きますと五十二名が日本に在住をされておられて、うち二名は日本で生活ができず自殺をされました。そして、本人が御存命なのは二十名でございまして、遺族世帯となっているのが三十名おられます。
ところが、なぜ独立後も日本政府が管理する巣鴨刑務所で彼らを服役させたのか、そういうことになった法的根拠というのは一体何なのか、外務省の条約局長にお伺いいたします。
今読み上げたとおり、あの判決を受諾した、だからあの当時なお巣鴨にせよ豪州にせよフィリピンにせよ死刑判決を受けた人も含めて千名を超えるいわゆる戦犯と称する人たちが刑の執行を受けていたわけですね。講和条約が結ばれたらそういう人たちが全部釈放されるのが国際法の原則ですよ。にもかかわらず、あえて十一条を設けて、これは日本政府の責任で刑の執行をやれ、釈放するかどうかはおれたちが決めるんだと。
講和条約が結ばれたにかかわらず、まだ千名を超えるいわゆる戦犯と称する人たちが巣鴨にも豪州にもフィリピンにも、中には死刑の判決を受けたまま置かれておった。元来、講和条約が結ばれればそうした者は全部釈放されるのが当然であります。にもかかわらず、十一条を設けてまだ捕まえておく。刑を執行するのは日本の責任でやれ、これが十一条の本旨じゃありませんか。
この中で、先般、イラン人ですか、外国の方が、我が国の一番伝統のある一九三七年にできました東京拘置所、巣鴨から今のところに七一年に移ったそうでございますが、一番厳しいと言われておるその拘置所からいとも簡単に外国人が、それも余り、今まで一回もその拘置所に入ったことのない、そこの拘置所には初入者だと思うのですが、入ったことがない方が軽々と私どもから見ると脱走したことについて、私も大変危惧の念を持っているのであります
それで、今池袋は割合目覚ましい発展を遂げておりまして、東京の中の商業地域としても、ついに渋谷を抜いて、今、銀座、新宿に次ぐ第三の商業地域になりつつありまして、豊島区民としては、あのかつての巣鴨プリズンの跡地の利用こそが池袋の発展だということを考えていることも御勘案いただければ、もう少し、私は、何も筑波移転をいきなり直接提案しようと思って言ったわけではありませんけれども、例えば、その候補地の一つとして
豊島区選出の議員は党派を問わず、この問題については継続的にしょった課題として対応することになっておりまして、私もこの問題をやらせていただきたいと思いますけれども、なぜあの地域選出の議員がこれほどこだわるのかといいますと、これは実に大変長い歴史がありまして、実は巣鴨プリズンの歴史とこの造幣局の歴史とが混然一体となっているというところがあります。