2018-02-05 第196回国会 衆議院 予算委員会 第5号
なお、沖縄県出身の人材登用については定量的なデータをお示しすることは困難でありますが、戦前においても、当時の皇太子、後の昭和天皇の欧州巡幸の際、お召し艦香取の艦長を務め、海軍軍人である漢那憲和や、外交官として中国で活躍した田場盛義など、各方面で活躍した沖縄出身の方々も存在されました。
なお、沖縄県出身の人材登用については定量的なデータをお示しすることは困難でありますが、戦前においても、当時の皇太子、後の昭和天皇の欧州巡幸の際、お召し艦香取の艦長を務め、海軍軍人である漢那憲和や、外交官として中国で活躍した田場盛義など、各方面で活躍した沖縄出身の方々も存在されました。
例えば、国会開会式へ出席しおことばを読むとか、国内巡幸とか、国民体育大会、植樹祭、全国戦没者追悼式などへの出席、外国元首との親電交換、外国公式訪問、園遊会などでございます。 これらの行為をどのように見るべきかについて、憲法学界では合憲説と違憲説がございます。
こういうことを背景に、一九一四年の六月、オーストリア皇太子夫妻が視察に行った、サラエボに巡幸していた、そのときにテロリストの投げた爆弾が二人の命を奪った、こういう事件であります。 何だ、たった二人か、今回のテロを見てみろ、六千人も命が奪われていると、こういう考えは今の人の考えでありまして、当時は帝国主義華やかなる時代でありますから、天皇、皇帝、王様というのは国の、国家そのものなんです。
例えば、海の日というものは七月二十日ですが、これは、明治天皇が東北巡幸をしてその帰りに軍艦に乗って横浜に着いた、そういう記念日ですね。それにちなんで七月二十日というふうに選ばれた。
御巡幸なんかを見ていますと、非常に平穏に行われていた。そういうことですから、我が国では絶対的な支障なんかなかったにもかかわらず、憲法を変えさせる動きをした。これはマッカーサーの行き過ぎた行為であったじゃないか。
ですから、その後の御巡幸のときにも全然もめごとは起きませんで、私も天草で船の上で天皇陛下をお迎えしましたけれども、みんなで喜んで迎えて、将来の日本国をつくろうという感じで、私どもの父親なんかは少し興奮していたようです、私も幼きながら覚えていますけれども。 ともあれ、この国体の護持というようなことを余り強く言いますと、ホワイトパージにもなりかねないんですね。
今国会において、来年から祝日として認められました海の日については、七月二十日、明治初め、東北巡幸を終えた明治天皇が灯台視察船明治丸に乗り、青森から函館を経て横浜に寄港した日に当たり、一九四一年に海の記念日となり、今回、国民の祝日海の日と決定されたわけでございます。
言うまでもありませんが、もともと海の記念日として七月二十日が制定されたのは、明治九年に明治天皇が東北を巡幸なさった後、汽船明治丸で函館を経て横浜に帰られた、その日だということが昭和十六年の海の記念日制定の一つの根拠になっておるわけです。 昭和十六年といえば、言うまでもありませんが、まさに戦争激化の年でありました。
○山元委員 七月二十日を海の記念日と定められたのは、明治天皇が東北巡幸の際に明治九年の七月二十日に汽船で横浜に帰ってこられた日を記念をしてというふうに聞いておりますが、昭和十六年当時、海の記念日を設定しよう、そういうことで、海に親しみやすい時期である七月ごろを選定するという方針から、幾つかの候補の日があったそうですけれども、その中からこの日が選定されたというふうに聞いております。
一八七六牛明治天皇が東北・北海道巡幸の際、汽船明治丸で横浜に帰着した日にちなみ一九四一年制定。」このように書いておるわけであります。 この海の記念日は、運輸省が支援をされまして、海運関係者あるいはまた海事関係者の主催により各地で毎年活発になってきておるというふうに承知をいたしております。これにつきましては大変評価をしていきたいと思うのであります。
この手続として県側から要請をするのが先であるのか政府の方でお決めになるのが先であるのか、そこはよくわかりませんけれども、それなりのひとつ手続をとられて、一日も早く天皇陛下の沖縄への御巡幸が実現するようにお願いをしておきたいと考えております。 三点目に第三次振計策定の作業日程についてであります。 沖縄県にとってことしは復帰十九年でありますし、また二次振計も九年次となりました。
さきにも御通知を申し上げましたとおり、天皇陛下の沖縄御巡幸について早急に実現をしていただきたい、こういうことで政府の御見解をお尋ねするわけでありますけれども、昨年一月七日に崩御あそばされた昭和天皇は、ぜひとも戦後の沖縄に行きたいというお気持ちをずっと表明されておられたわけでありますが、御病気のためにとうとうそれが実現できなかったわけでございます。
とりわけ、終戦後の混乱した中で、人間天皇として全国を御巡幸されまして、打ちのめされた国民に希望を与えていただいた。そして、あの荒廃の中から私たちの先輩は今日の日本を築き上げていただいた。何かしら世界の中のリーダーの一翼を担う、こういう日本を見届けられての御崩御のような思いをするわけであります。
年齢層の高いところ、五十代が親近感が強いというのは、今の五十代というと私より約十五年から二十年若いのですけれども、その人たちが巡幸を目の当たりに見た感激というものは今日も続いておる。遠くなればなるほどだんだん無関心になって、その下の世代がどんどん広がることが果たして皇室の将来にプラスかマイナスか、これはゆゆしき問題だと思うのですね。宮内庁側の答弁を聞きたいと思います。
戦後の御巡幸になったころはそんなに徹底した警備じゃなかったので、天皇と民衆が接触することが可能だった。しかし、今それがどんどん逆戻りしている。ですから、この問題についてまず宮内庁の見解を聞いて、警察庁の見解を聞きたいと思うのです。宮内庁からどうぞ。
また、あの戦後の御巡幸の際と対比して、だんだん世の中が落ちついて整理されてくると簡単にいかなくなる点もあるのじゃないかという御指摘もたびたび私どもは耳にするわけでございまして、地方行幸のときにも、そういう点について本当にあのままでやっていただきたいということも、私どもの気持ちとしてはよく言うわけでございます。
もしそういう意見が成り立つのであれば、同じ論理で、すなわち天皇は象徴だからということで、たとえば現在国事行為として憲法に規定されていない地方巡幸であるとか、外国元首の訪問などもすべて国事行為として扱えという意見が出てきます。これは現に出ていますし、政府の中にもそういう考え方がありますけれども、そういう意見、すなわち、天皇が象徴であるということを理由にして何でも出てくる可能性がある。
その天皇と国民とを具体的に結びつけるきずなは、いろいろな行事、たとえば新年の歌御会始めの行事であるとか、各地への御巡幸であるとか、いろいろとございますが、最も深い意義を持つ制度は、天皇の代のかわるごとに元号を改めるということであると存じます。 元号は、新天皇が国家の繁栄、国民の幸福を祈念する心を体して定められるはずのものでありまして、新元号によって国民の耳目を一新する効果があるでありましょう。
また四月から六月にかけましては、ベルギーの九つの州を国王夫妻が巡幸されたとのことでございます。六月二十三日には、国王即位の年に誕生しました若者約五百名を招いてレセプションを行われたというようなことも、視察の結果伺ってまいりました。また六月の二十六日及び二十七日には、ブラッセル市郊外の元万国博会場におきましてスポーツ、音楽、舞踊、演劇等の祝賀国民祭が、これは国民の手で行われておりました。
たとえば、このことを宮内庁長官、この点よく聞いていただきたいんですけれども、昭和四十六年に天皇が中国地方を巡幸された。その際に、松江の宿舎で偶然、本当に突然陛下と一言二言お話し合いになる機会があったそうですよ。そのときに天皇自身が、もっときさくに振る舞いたいという意味のことを述べられたやに仄聞をしております。
しかし、戦後陛下が各府県を御巡幸になりまして、これは一方(ひとかた)でお参りになりまして、朝八時から六時までという非常に過密な、しかも一回三十日近い、一月に近い御旅行をお続けになったときに、そういうお品の御動座というのが実際問題として非常にむずかしくなりまして、千葉県以来それがなくなっております。
ただいま敗戦直後の陛下の地方御巡幸の一コマの情景等についてお話があり、感銘深く拝聴した次第でございます。また先ほどの、松村先生の著書の御引用、私も拝見しまして感銘深く記憶をいたしております。
あるいはまた、外国の元首と祝祭日等に親電を御交換になるとか、あるいはまた、広く国内を御巡幸になるとかというような天皇の御行動は、全く私人としての御行動とは違って、象徴たる地位というものを背後に負って、その象徴たる地位が反映をして公的な色彩を帯びた行為だということは、何人も否定することのできない事実であろうと思います。
たとえば、国会の開会式に招待をされて御出席になるとか、あるいは国内を御巡幸になるとかいうような行為が、このいわゆる公的行為の典型的なものであると思いますが、宮中においていろいろな人に拝謁をたまう、お会いになるということも、天皇の象徴としての地位において行なわれるものでございますので、この公的行為に類似する行為、いわば公的な意味を持っている御行動であろうと思います。
こういうものはかなり象徴としての公的な行為ということに考えられますが、国内御巡幸ということになりますと、かつて終戦後、東北御巡幸をいただいたこともございますし、その後、毎年の植樹祭あるいは国体等にもお出まし願い、札幌のオリンピック大会にもお出かけになり、さらに学士院とかあるいは芸術院の授賞式などにもお出ましを願っている。