2007-11-06 第168回国会 衆議院 本会議 第9号
祖父川崎克、父川崎秀二に次いで永年在職議員として表彰をいただきましたこと、特に私の父が二五年在職の七日前に亡くなり、特別の計らいで二四年一一ヶ月の表彰をいただいただけに感激の極みであります。同時に、倒れた父の意志を継ごうとした「初心を忘れず」を改めて決意する次第です。これもひとえに郷土三重県の皆様のご支援のお陰であり、心から厚く御礼申し上げます。
祖父川崎克、父川崎秀二に次いで永年在職議員として表彰をいただきましたこと、特に私の父が二五年在職の七日前に亡くなり、特別の計らいで二四年一一ヶ月の表彰をいただいただけに感激の極みであります。同時に、倒れた父の意志を継ごうとした「初心を忘れず」を改めて決意する次第です。これもひとえに郷土三重県の皆様のご支援のお陰であり、心から厚く御礼申し上げます。
(拍手) 川崎秀二先生は、わが郷土三重の戦前の大政治家、尾崎行雄、浜田國松両先生とともに、大物政治家として尊敬を受けていた川崎克先生の次男として、明治四十四年九月十四日に生をうけられました。
私も川崎先生と同時に表彰を受けるはずであるということであり、特に、先生は、先代川崎克先生とともに、衆議院においては例の少ない親子二代の表彰であることをひそかな喜びとして、誇りとしておられました。
(拍手) 思えば、昭和十五年、いよいよ日本が戦時体制に深入りして、政党が次々と解党し、大政翼賛会が日本の良識を麻痺させた七十六帝国議会のとき、大政翼賛会のため助成金を出す予算を追加しようとした政府予算案に反対し、翼賛会に対する政府補助金の削除を求めた議員、川崎克、鈴木文治、芦田均、鳩山一郎、片山哲氏などとともに、粟山さんの名が連ねられておるのであります。
また、昭和十五年、大政翼賛会運動が起ったときには、議会政治を否定するものとして敢然としてこれに反対し、翌年九月の翼賛議員同盟の結成にもあえて参加せず、言論の府たる議会を守り抜かんとの決意を持って、尾崎行雄、鳩山一郎、川崎克氏らの諸先輩とともに同交会を組織し、次いで、翌十七年の翼賛選挙には非推薦で出馬し、幾多の弾圧を排して当選せられたのであります。
その後、七十四議会においては、昭一十三年、川崎克氏が、当時早くもヘルシンキ・オリンピックに対する発言を行つております。八十八議会においしもまた同様な発言が行われており、国会が、国民体育、スポーツに、その時代時代におきまして深き認識を持つていたことが記録によつて証拠づけられておることは、慶賀にたえない次第でございます。
私は同君と三重県で事業をいたしております関係で尊敬もし、ことに先代川崎克先生については尊敬をしておりますので、個人の情においては忍びませんけれども、こういうことを許すことは、議事進行に名をかりて、絶えず演壇を占有することになる。そもそも議長の許可がなければ、演壇に登れないという原則だけは、画然としておかなければならぬ。これは衆議院規則にはつきりきめております。
その後第七十四議会前後には、川崎克氏がヘルシンキのオリンピツクに対し選手派遣の発言を委員会でなしており、また八十八議会におきましては、福田繁芳氏が、派遣に対する見通しについての質問をしております。その他新しい國会では、鈴木明良氏が記録についての発言をなしております。 かように考えて参りますと、明治、大正、昭和を通じまして、体育スポーツに関しての発言は議会に寥々たるものでございます。