2000-03-15 第147回国会 参議院 総務委員会 第3号
さらに、戦後になりますと、中国では山西軍の問題がございます。中国の山西省に駐在しました日本軍は、これは終戦と同時に本来全部武器を敵に渡して投降すべきでありました。
さらに、戦後になりますと、中国では山西軍の問題がございます。中国の山西省に駐在しました日本軍は、これは終戦と同時に本来全部武器を敵に渡して投降すべきでありました。
○政府参考人(大坪正彦君) 先生言われました山西軍の方々、ここ二年ぐらい前から恩給請求の手続に入っておられます。 現在のところの数字を申し上げますと、恩給請求されました方は五十名でございます。
○炭谷政府委員 ただいま先生のお話の山西軍の関係でございますけれども、終戦時、山西省にいた旧日本軍人の方々は、中国国民政府の山西軍に参加するため山西省に残留した者につきまして、昭和二十八年から二十九年にかけまして厚生省において三百名を超える方々から実情を聴取いたしております。
そこで、ただいま先生の御指摘の山西省にありました旧日本軍の支那派遣軍、これは第一軍でございますけれども、この日中の停戦協定に基づきまして中国国民政府山西軍に降伏手続をとることになっていたわけでございます。しかし、当時の山西軍は、中共軍への対抗上、将兵がやや弱いということで山西軍への参加を勧誘したというところもあり、第一軍の将兵の中には残留希望者が当時続出したと聞いております。
○国務大臣(小泉純一郎君) 私は、きょうこの山西軍のお話は初めて聞かせていただきました。戦争が終わった後の日本軍の混乱のみならず、中国において内戦状態、新たな戦いにまた巻き込まれざるを得なかった山西軍の状況等は、今から考えますと想像を絶するような苦難の状況ではなかったかと私は想像しております。
○説明員(竹之下和雄君) 当時、終戦直後、中国国民政府軍の山西軍に参加するために山西省に残留した旧日本軍の軍人につきましては、昭和二十八年から二十九年にかけまして残留者に対して当時の実情に関する調査を厚生省として行いました。そして、その結果については昭和三十一年に国会に報告しているところでございます。
○説明員(並木進君) 先生のお尋ねの件でございますが、山西軍に参加しまして現地で亡くなられた五百五十名のうち、二百六十名のみに対しまして公務扶助料を受け取ることができる処理を行った理由ということでございます。この件につきまして御説明申し上げます。
それから山西軍の問題についても、これも同様でございます。今の状況からいえばいろいろわからない点もあるでしょう。しかしその当時の事情としては、兵隊の立場からいえば、上官の命令だということでやむを得ないような場合もあったのではなかろうかと思います。
それから山西軍の方は、中国国民政府から日本人の山西軍の編成を禁止する、こういう命令が来ておったんですけれども、そういう命令が日本軍に通知されていなかった、こういう時期が実はあったわけです。 それで、当時第一軍は約六万おったんですけれども、一万人残さなければ全員復員させない、こういううわさを流して日本軍を動揺させたわけです。
敗戦直後、中国の山西省に残留した二千六百名の将兵が中国国民党政府の山西軍の支援のために戦闘を続行して多くの犠牲者を出しました。当時、軍は、一九四六年三月十五日に、残留した将兵全員を全員の知らない間に現地除隊として措置をとったため、軍人としての取り扱いを受けられずに物心両面で不利益をこうむったまま今日に至っています。
しかし、その次の段階に参りますと、いろいろありまして、南京にあります支那派遣軍だとか、あるいは中国国民政府の方の指令が正確に第一軍に届いていなかった、そういうことがありまして、それが二十一年になりまして、支那派遣軍の方の総司令官がどうも山西軍の方の様子がよくわからないということで、総司令部の方から宮崎中佐、これは支那派遣軍の参謀なんですけれども、中佐を山西の方に派遣したんです。
ただいま御質問の、当時中国山西省にありました日本軍の第一軍でございますけれども、これにおきましては、山西軍に残留を希望する将兵に対しまして全員帰還の方針をもって説得しております。それで、これにもかかわらず、その説得に応ぜず残留した者に対しまして、当時の陸軍部隊の復員に関する規定に基づきまして現地召集解除の処置がとられたものであります。
それは三十一年から三十三年にかけまして国会で御議論になったことなんですけれども、山西軍に残留参加して中共軍との戦闘で亡くなった方、そういう方の御遺族に対する処遇ができないか、そういうことが御議論になった経緯ございます。
山西軍に参加するために中国山西省に残留しました旧日本軍につきましては、昭和二十八年、二十九年にかけまして、残留者に対しまして当時通信調査または直接御本人を厚生省に招致いたしまして当時の状況を調べました。それで、その調査いたしました結果を、先ほど先生からもお話がございましたように、昭和三十一年の国会に御報告をいたしまして諸般御議論をしていただいたところでございます。
○国務大臣(坂本三十次君) ただいまの山西軍と申しますか、その問題につきましては私は今聞いたばかりでございまして、私自身はその点をまだまだ勉強はしておりませんので、ただいま委員のおっしゃったようなその趣旨につきまして、これは大分前にも国会で論議になったということを今聞きましたのですけれども、しかし、それでもなおかつやっぱり請願、陳情の趣旨は、御熱意があると思いますので、これは担当はやはり厚生省と思いますので
○山中(邦)委員 現地除隊した者の中で山西軍に参加をしなかった者もいたはずだと思われますので、そういう趣旨で聞いているわけでありますけれども、それ以上お話が出ませんから、先へ進みます。 現地除隊の認定、これはだれがやって、どこに公の記録があるのですか。
○村瀬説明員 その問題につきましては、厚生省は既に昭和二十八年から二十九年にかけまして、山西軍に参加し、帰還した方々に対しまして十分な調査を行っております。その調査の結果につきましては、昭和三十一年に厚生省から国会に御報告いたしております。
○村瀬説明員 私ども、ただいま申しましたように、山西軍に参加した日本人の数、これは内地に帰還をせずに現地に滞在した方の数でございますが、これが二千六百という数を把握しております。
○村瀬説明員 初めに調査の件からまいりたいと思いますけれども、終戦から現在まで未帰還調査というものを実施しておりまして、政府といたしましては山西軍参加者が現在中国に残留しているということは認識しておりません。
要するに、現地で召集されて日本軍に編入され、それであの大陸で敗戦という大衝撃を受けて、それでこの方は特に憲兵に召集された結果、憲兵隊に配属されたものですから、わずかの期間ですが、これは内地に帰っても追及を受けるのではないか、非常な不安もあって仲間と一諸に山西軍に行ったというわけです。それで中の一人は間もなく内地に帰ってきて、そうして留守宅の奥さんに、あなたの御主人も帰りたがっております。
ところが、同年の二十年の十一月−秋になりまして奥さんやお子さんは日本に帰られたわけでございますが、御本人は山西軍の求めに応じまして山西軍に参加をされたわけでございます。これは御承知のとおり閻錫山の、中華民国の部隊でございますが、これに参加されたわけでございます。そういたしまして、二十三年の十月二十七日に山西省の太原において死亡しておられます。
同じように大陸で戦争に参加させられていて、戦争に参加していて、それで一方は、戦争に負けた、これは内地へ帰っても不安だといって山西軍に入った、山西軍に入ってもそこへ永住するつもりがあったわけでもないでしょうけれども、同僚で、直ちにもう帰った人もあれば、本人も帰りたいと言っておりますという手紙まできている。それだけの違いで何の援護も受けられない、そういうことですか。
それからこのような方々、つまり戦後、山西軍に参加したところの者はどのくらいあるだろうということでございますが、その当時北支方面におられました軍人軍属で二千六百名、それから在留邦人、この場合、ただいまのこの方も在留邦人に入るわけでございますが、三百五十名、計二千九百五十名の方が山西軍に参加をしておる、こういうふうに私どもは数字をつかんでおります。
○吉田説明員 ただいま櫻井先生から御指摘の点でございますが、この報告書は要約をいたしましたので、細部については必ずしも書いてございませんが、御指摘の事柄、たとえて申しますと、この報告書の第二項の「山西軍の日本軍将兵に対する参加勧誘の開始とその影響」、この項の中には、ただいま参考人の述べられたようなことは十分私ども承知して書いてございます。
この際、お手元に配付いたしてあります厚生省提出の山西軍参加者関係の資料について、末帰還調査部長より発言を求められておりますので、これを許します。吉田未帰還調査部長。
それを要約いたしまして、ただいまお手元に提出をしております「山西軍参加者の行動の概況について」という表題のもとに集録いたした次第でございます。表紙の裏に目次がございますが、一応それについて補足説明をさせていただきます。 報告書の内容としましては、第一としまして、終戦から中国山西軍の山西省進出までの状況、このときにはまだ現地残留という問題はあまり濃厚に出ておらなかった時期でございます。
それで、それに対しては勿論不服があつたならば申立をしてくれと、こういうことなのでございますが、先ほど仰せになりましたように、舞鶴で書かれたもの等でわかるのじやないかと、こうおつしやいますけれども、なかなかやはり、先生よく御承知のようなああいう空気だものでございますから、なかなか細かいところ、俺は元山西軍に所属しておつたと、それだけではちよつとどうも工合が悪い。
で私どものほうで従来未帰還者として調査をしておりますものの中で、この人間は大体中共渡しになるのじやないか、この人間は山西関係の戦犯として残されているのじやないかと、いろいろ検討をしておりましたが、山西関係のいわゆる戦犯関係の場合、今回渡されました名簿に載つております者と大体同様に、山西軍に従軍をしたと思われ、又同様に永年等で生活をしておつたというような帰還者の証言のありますもので、この名簿に載つておらないという
先ず最初に、いわゆる山西軍参加者、この行動の概要を申し上げます。 終戦のときに山西におりました日本軍は約五万六千でありまして、その年の十月頃から山西軍が逐次伯本軍の占領地域内に出て参りまして、日本軍と警備を交代したのでありますが、そのとき以降、山西軍側の日本軍に対するいわゆる引きとめ工作、或いは山西軍編入の勧誘、こういうことが強く行われるようになつたのであります。
今次中共地域引揚者の特色といたしましては、その中心が元山西軍の軍人軍属、すなわちいわゆる戦犯釈放者四百十七名でありまして、その他の一般邦人もこれら釈放者の、家族が多く含まれているのではないかとのことであり、また男子が従来に比し多く、将校が比較的少いようであるとのことでありました。
○中井(徳)委員 まことにどうも山西軍だけは支那大陸の多数の軍隊の中で特殊の状況にあつたと思うのであります。実は私も引揚者でありますから多少その辺のことは知つておるのでありますが、各地方でも敗戦の当初は無条件降伏と言われながら最後まで残らなければならぬという動きがありました。
この差入れをしておりました者は、今湯浅代表もちよつと言われました松本広瀬という、つまり山西軍を閻錫山に交渉して中国に残した計画者の一人であります。松本広瀬は、これはやはり反革命罪に問われまして、中国で反革命罪で逮捕され、五年の刑を受けまして、昨年帰つて来ております。松本広瀬、この人が岩田、河本、城野、この三人の人に差入れをしております。
2、山西軍教導三団団長大庭の言、一九四六年六月帰国を申出たとき大庭は軍刀を抜き「斬り殺すぞ」と迫まり、同行の鈴木、落合、佐々木、高橋、斎藤等五名も脅迫され、指を切り、帰国断念の血判を押さされた。3、独立混成三旅団高級副官、川原少佐の言、「日本再建のため闘魂を消滅してはいけない、この仇を必ず討て、赤穂浪士の復讐精神を堅持して臥薪嘗胆せよ。
その際、閻錫山が、強制的な命令的なものではなかつたけれども、交換条件でも何でもなかつたけれども、山西軍を助けて共産軍に対抗する意味において、何か山西にたてこもつてわれわれと行動を共にしてもらいたいというような穏健な言葉の懇請があつたはずであります。