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18件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1997-07-09 第140回国会 参議院 決算委員会 閉会後第2号

そこで、ただいま先生の御指摘山西省にありました旧日本軍の支那派遣軍、これは第一軍でございますけれども、この日中の停戦協定に基づきまして中国国民政府山西軍降伏手続をとることになっていたわけでございます。しかし、当時の山西軍は、中共軍への対抗上、将兵がやや弱いということで山西軍への参加勧誘したというところもあり、第一軍将兵の中には残留希望者が当時続出したと聞いております。  

炭谷茂

1997-07-09 第140回国会 参議院 決算委員会 閉会後第2号

国務大臣小泉純一郎君) 私は、きょうこの山西軍お話は初めて聞かせていただきました。戦争が終わった後の日本軍の混乱のみならず、中国において内戦状態、新たな戦いにまた巻き込まれざるを得なかった山西軍状況等は、今から考えますと想像を絶するような苦難の状況ではなかったかと私は想像しております。  

小泉純一郎

1997-03-17 第140回国会 参議院 内閣委員会 第2号

説明員竹之下和雄君) 当時、終戦直後、中国国民政府軍山西軍参加するために山西省残留した旧日本軍軍人につきましては、昭和二十八年から二十九年にかけまして残留者に対して当時の実情に関する調査厚生省として行いました。そして、その結果については昭和三十一年に国会報告しているところでございます。  

竹之下和雄

1993-03-29 第126回国会 参議院 内閣委員会 第3号

それから山西軍の問題についても、これも同様でございます。今の状況からいえばいろいろわからない点もあるでしょう。しかしその当時の事情としては、兵隊の立場からいえば、上官の命令だということでやむを得ないような場合もあったのではなかろうかと思います。

藤江弘一

1993-03-29 第126回国会 参議院 内閣委員会 第3号

それから山西軍の方は、中国国民政府から日本人山西軍の編成を禁止する、こういう命令が来ておったんですけれども、そういう命令日本軍に通知されていなかった、こういう時期が実はあったわけです。  それで、当時第一軍は約六万おったんですけれども、一万人残さなければ全員復員させない、こういううわさを流して日本軍を動揺させたわけです。

村瀬松雄

1992-04-07 第123回国会 参議院 内閣委員会 第4号

敗戦直後、中国山西省残留した二千六百名の将兵中国国民党政府山西軍の支援のために戦闘を続行して多くの犠牲者を出しました。当時、軍は、一九四六年三月十五日に、残留した将兵全員全員の知らない間に現地除隊として措置をとったため、軍人としての取り扱いを受けられずに物心両面で不利益をこうむったまま今日に至っています。

吉川春子

1992-04-07 第123回国会 参議院 内閣委員会 第4号

しかし、その次の段階に参りますと、いろいろありまして、南京にあります支那派遣軍だとか、あるいは中国国民政府の方の指令が正確に第一軍に届いていなかった、そういうことがありまして、それが二十一年になりまして、支那派遣軍の方の総司令官がどうも山西軍の方の様子がよくわからないということで、総司令部の方から宮崎中佐、これは支那派遣軍の参謀なんですけれども中佐山西の方に派遣したんです。

村瀬松雄

1992-04-07 第123回国会 参議院 内閣委員会 第4号

ただいま御質問の、当時中国山西省にありました日本軍の第一軍でございますけれども、これにおきましては、山西軍残留を希望する将兵に対しまして全員帰還の方針をもって説得しております。それで、これにもかかわらず、その説得に応ぜず残留した者に対しまして、当時の陸軍部隊の復員に関する規定に基づきまして現地召集解除の処置がとられたものであります。  

村瀬松雄

1991-03-26 第120回国会 参議院 内閣委員会 第3号

山西軍参加するために中国山西省残留しました旧日本軍につきましては、昭和二十八年、二十九年にかけまして、残留者に対しまして当時通信調査または直接御本人厚生省に招致いたしまして当時の状況を調べました。それで、その調査いたしました結果を、先ほど先生からもお話がございましたように、昭和三十一年の国会に御報告をいたしまして諸般御議論をしていただいたところでございます。  

村瀬松雄

1991-03-26 第120回国会 参議院 内閣委員会 第3号

国務大臣(坂本三十次君) ただいまの山西軍と申しますか、その問題につきましては私は今聞いたばかりでございまして、私自身はその点をまだまだ勉強はしておりませんので、ただいま委員のおっしゃったようなその趣旨につきまして、これは大分前にも国会で論議になったということを今聞きましたのですけれども、しかし、それでもなおかつやっぱり請願、陳情の趣旨は、御熱意があると思いますので、これは担当はやはり厚生省と思いますので

坂本三十次

1973-06-26 第71回国会 参議院 社会労働委員会 第14号

要するに、現地で召集されて日本軍に編入され、それであの大陸敗戦という大衝撃を受けて、それでこの方は特に憲兵に召集された結果、憲兵隊に配属されたものですから、わずかの期間ですが、これは内地に帰っても追及を受けるのではないか、非常な不安もあって仲間と一諸に山西軍に行ったというわけです。それで中の一人は間もなく内地に帰ってきて、そうして留守宅奥さんに、あなたの御主人も帰りたがっております。

小平芳平

1972-05-23 第68回国会 参議院 社会労働委員会 第16号

ところが、同年の二十年の十一月−秋になりまして奥さんやお子さんは日本に帰られたわけでございますが、御本人山西軍の求めに応じまして山西軍参加をされたわけでございます。これは御承知のとおり閻錫山の、中華民国の部隊でございますが、これに参加されたわけでございます。そういたしまして、二十三年の十月二十七日に山西省の太原において死亡しておられます。

中村一成

1972-05-23 第68回国会 参議院 社会労働委員会 第16号

同じように大陸戦争参加させられていて、戦争参加していて、それで一方は、戦争に負けた、これは内地へ帰っても不安だといって山西軍に入った、山西軍に入ってもそこへ永住するつもりがあったわけでもないでしょうけれども、同僚で、直ちにもう帰った人もあれば、本人も帰りたいと言っておりますという手紙まできている。それだけの違いで何の援護も受けられない、そういうことですか。

小平芳平

1972-05-23 第68回国会 参議院 社会労働委員会 第16号

それからこのような方々、つまり戦後、山西軍参加したところの者はどのくらいあるだろうということでございますが、その当時北支方面におられました軍人軍属で二千六百名、それから在留邦人、この場合、ただいまのこの方も在留邦人に入るわけでございますが、三百五十名、計二千九百五十名の方が山西軍参加をしておる、こういうふうに私ども数字をつかんでおります。

中村一成

1956-12-03 第25回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号

吉田説明員 ただいま櫻井先生から御指摘の点でございますが、この報告書は要約をいたしましたので、細部については必ずしも書いてございませんが、御指摘の事柄、たとえて申しますと、この報告書の第二項の「山西軍日本軍将兵に対する参加勧誘の開始とその影響」、この項の中には、ただいま参考人の述べられたようなことは十分私ども承知して書いてございます。

吉田元久

1956-12-03 第25回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号

それを要約いたしまして、ただいまお手元提出をしております「山西軍参加者行動概況について」という表題のもとに集録いたした次第でございます。表紙の裏に目次がございますが、一応それについて補足説明をさせていただきます。  報告書の内容としましては、第一としまして、終戦から中国山西軍山西省進出までの状況、このときにはまだ現地残留という問題はあまり濃厚に出ておらなかった時期でございます。

吉田元久

1954-11-05 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第12号

それで、それに対しては勿論不服があつたならば申立をしてくれと、こういうことなのでございますが、先ほど仰せになりましたように、舞鶴で書かれたもの等でわかるのじやないかと、こうおつしやいますけれども、なかなかやはり、先生よく御承知のようなああいう空気だものでございますから、なかなか細かいところ、俺は元山西軍に所属しておつたと、それだけではちよつとどうも工合が悪い。

田島俊康

1954-11-05 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第12号

で私どものほうで従来未帰還者として調査をしておりますものの中で、この人間は大体中共渡しになるのじやないか、この人間山西関係戦犯として残されているのじやないかと、いろいろ検討をしておりましたが、山西関係のいわゆる戦犯関係の場合、今回渡されました名簿に載つております者と大体同様に、山西軍に従軍をしたと思われ、又同様に永年等で生活をしておつたというような帰還者の証言のありますもので、この名簿に載つておらないという

大野克一

1954-11-05 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第12号

先ず最初に、いわゆる山西軍参加者、この行動の概要を申し上げます。  終戦のときに山西におりました日本軍は約五万六千でありまして、その年の十月頃から山西軍が逐次伯本軍占領地域内に出て参りまして、日本軍と警備を交代したのでありますが、そのとき以降、山西軍側の日本軍に対するいわゆる引きとめ工作、或いは山西軍編入の勧誘、こういうことが強く行われるようになつたのであります。

板垣徹

1954-10-07 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号

今次中共地域引揚者の特色といたしましては、その中心が元山西軍軍人軍属、すなわちいわゆる戦犯釈放者四百十七名でありまして、その他の一般邦人もこれら釈放者の、家族が多く含まれているのではないかとのことであり、また男子が従来に比し多く、将校が比較的少いようであるとのことでありました。

受田新吉

1954-10-07 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号

○中井(徳)委員 まことにどうも山西軍だけは支那大陸の多数の軍隊の中で特殊の状況にあつたと思うのであります。実は私も引揚者でありますから多少その辺のことは知つておるのでありますが、各地方でも敗戦の当初は無条件降伏と言われながら最後まで残らなければならぬという動きがありました。

中井徳次郎

1954-10-04 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第5号

この差入れをしておりました者は、今湯浅代表もちよつと言われました松本広瀬という、つまり山西軍閻錫山に交渉して中国に残した計画者の一人であります。松本広瀬は、これはやはり反革命罪に問われまして、中国で反革命罪で逮捕され、五年の刑を受けまして、昨年帰つて来ております。松本広瀬、この人が岩田、河本、城野、この三人の人に差入れをしております。

吉沢国雄

1954-10-04 第19回国会 参議院 厚生委員会 閉会後第5号

2、山西軍教導三団団長大庭の言、一九四六年六月帰国を申出たとき大庭は軍刀を抜き「斬り殺すぞ」と迫まり、同行の鈴木、落合、佐々木、高橋、斎藤等五名も脅迫され、指を切り、帰国断念の血判を押さされた。3、独立混成旅団高級副官川原少佐の言、「日本再建のため闘魂を消滅してはいけない、この仇を必ず討て、赤穂浪士復讐精神を堅持して臥薪嘗胆せよ。

湯浅質治

1954-03-16 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第6号

その際、閻錫山が、強制的な命令的なものではなかつたけれども交換条件でも何でもなかつたけれども山西軍を助けて共産軍に対抗する意味において、何か山西にたてこもつてわれわれと行動を共にしてもらいたいというような穏健な言葉の懇請があつたはずであります。

庄司一郎

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