2007-12-07 第168回国会 衆議院 外務委員会 第5号
いわゆるソビエト軍の極東の軍のトップでありましたワシレフスキーから山田大将に対する命令書というのが、ここにコピーがあるわけでありますが、この命令書、原語はロシア語で書かれております。それは、関東軍総司令官山田大将殿ということで書いてありますが、この文章の一部を、私が前に一度、きのうレクの段階でここを読んでくれと言った部分に関してお読みいただきたいと思います。
いわゆるソビエト軍の極東の軍のトップでありましたワシレフスキーから山田大将に対する命令書というのが、ここにコピーがあるわけでありますが、この命令書、原語はロシア語で書かれております。それは、関東軍総司令官山田大将殿ということで書いてありますが、この文章の一部を、私が前に一度、きのうレクの段階でここを読んでくれと言った部分に関してお読みいただきたいと思います。
そういう人々がなくなっておられたという場合には、その差額を支払わなければならぬという問題が起るんですが、ここはすでに支給した恩給の額はこれを返還するを要せず、というただし書きをつけて、特別を設けておけばいいんであって、今度山田大将が帰ってこられたからいいけれども、もしなくなっておられたとしたならば、大将の普通恩給をもらっていた分と、過去の大将の公務扶助料との差額、年額十万円くらいのものを払わなければいかぬだろう
これは山田大将は健康の許すやいなや釈放帰還の手続をとるということが、モスクワのニュース・サービスの速報に出ております。事実だろうと思います。
集まれというので、山田大将と後宮大将とクラブを作っておりますが、そこへ集めてお二人にいろいろ話をして、それから各部屋にあとからお見えになっていろいろ話をされた。それで山田大将と後宮大将の部屋の入口には、やはり通訳が立っておって、話を聞いておる。それから各部屋に入ったのですが、高良とみさんのときには、絶対見えないところへ行って、何だかんだといって、終りまで見せないで話をする。
私たちはソ連側との帰国の問題の協定ができまして、これが十二月十九日でございましたが、十二月二十四日にモスクワより三百キロのイワノヴオという大きな町でございますが、その町の郊外に収容されておる日本人の高級戦犯者山田大将以下三十八名の収容所を訪問したのでございます。
○参考人(工藤忠夫君) 書籍の問題につきましては、収容所を訪問いたしましたときに、山田大将から、自分はドイツ語を大いに勉強したいと思つているのだが、独自の辞書がない。それでまあロシヤ語の辞書を通じて孫引きをして漸くドイツ語を読んでいるのだが、とにかく辞書が欲しいというような意向もありまして、書籍の問題が出たのでございますが、書籍は個人的の送付は許されてはおりません。収容所に宛てて書籍を送る。
この訪問におきましては、山田大将以下三十八名の方々がおられました。当日は、全然われわれの訪問について予告されておりませんでして、非常にみんな面くらつて、びつくりしたような顔をしておられました。
○工藤参考人 通信の点でございますが、通信は、山田大将に会いましたときも、三箇月ないし四箇月かかる、非常に通信がおそいから何とかしてもらえないかというような話でございましたが、これはやはりソ連全体の一つの慣行と見えまして検閲があるように聞いております。そういうような関係で、通信がなかなかわれわれが期待しているように自由には行かないように聞いております。
従つて例えば山田大将の御家族はその恩給法による普通恩給の支給を受けることに相成るわけであります。 それから十五条から以下は現在未復員者給与法において規定せられております帰郷旅費、これは未帰還者が帰還した際に支給する旅費であります。この帰郷旅費は遺骨埋葬経費、遺骨引取経費、療養とか、こういうことについて現在規定しておりますものをそのまま踏襲いたしまして規定したのでございます。
そういう意味において、フイリピンの戰犯につきましては、家族たちにも申し伝えまして、できるだけ多くの嘆願運動をいたすように、またこちらの代表部におります方々たちも、こちらから行きます嘆願運動を非常に喜んで受けて、キリノ大統領に届けることをむしろ歓迎をしておられるような気味でありますので、われわれといたしましても、山田大将夫人などにお供いたしまして、フイリピンの公使にも要請いたしたことがございますので、
私は法律的の問題につきましては素人でありますが、先ほど申上げました通りに終戦直後、八月の二十四日だと記憶いたしますが、私は日本政府の代表として考えておりますのは、当時の軍司令官の山田大将、これは日本の大使であります。
将官のうちで、すでに刑を受けられた方、これは新聞にも出たかと思いますが、例の山田大将、それから梶塚軍医中将、川島軍医少将、佐藤軍医少将、高橋獸医中将がそれぞれ細菌戰に関連して軍法会議を受けました。これはソ連の新聞にその論告検事の起訴状及び判決並びに判決の理由、それらか処刑というようなものがはつきりとソ連の新聞に出ました。
そうして山田大将の部屋に行かれて、自分はモスコーから状況観察に来たのだが、どうも中央アジア地区においては、日本の捕虜の死亡者が少くて非常に工合がよいが、どうもシベリア地区は捕虜が多くて困る。そこでソ連当局としては速かにラーゲル、兵舍ですが、ラーゲルを沢山作ろうと思つておるのだと、こういうことを山田大将に申されて、山田大将から廊下で我々聞いたのであります。
このときはソ連の、名前は忘れましたがゲ・ぺ・ウの大佐が、山田大将以下が、かつて関東軍においてこういつたところの事実を犯しておるということについて、私は起訴する起訴状の事実の読み上げでした。その後の判決は、私が收容所を出たために聞いておりません。その約一週間ほど前から、しきりにこの将官全般にわたり取調べがあつたのであります。
ところが十二月の二十三日夜九時に報道がありまして、細菌戰の山田大将以下の報道がありましたものですから、今の取調べはおれたちから細菌戰の資料をとるために調べられたということが、はつきりしたのであります。その後あすこにハバロフスク大学の支那語の通訳ですが、日本語も解します。この人が通訳の主任でありますが、来ております。