2004-03-18 第159回国会 衆議院 憲法調査会 第3号
中学生になって、私は、茨城県霞ケ浦にあった海軍少年航空隊に志願することを強く望んでおりました。七つボタンの格好いい海軍少年航空兵にあこがれていました。そして、少年航空兵になった暁には、敵地に乗り込んでいって敵兵を一人でも多く殺してやろうと意気込んでいました。日本が戦争に勝つためには、敵兵を殺すことは正しいことだ、必要なことなんだと、軍国教育の中で教えられ、それを信じて生きてきました。
中学生になって、私は、茨城県霞ケ浦にあった海軍少年航空隊に志願することを強く望んでおりました。七つボタンの格好いい海軍少年航空兵にあこがれていました。そして、少年航空兵になった暁には、敵地に乗り込んでいって敵兵を一人でも多く殺してやろうと意気込んでいました。日本が戦争に勝つためには、敵兵を殺すことは正しいことだ、必要なことなんだと、軍国教育の中で教えられ、それを信じて生きてきました。
この詩を、二十年の八月まで、予科練に、少年航空隊に、あるいはお父さんが出征する子供たちを励ましてきた、こういう教師が、「逝いて還らぬ教え児よ」という気持ちを吐露しているわけですね。文部大臣、どうですか、これは。
事務当局から長官お聞きになっておると思いますが、簡単にスケッチしますと、湖南丸は沖縄から少年航空隊へ入隊するために行って途中撃沈された。嘉義丸はその逆で、いわゆる赤紙と言われていた召集令状がうちに来ているからとりに来なさいということで家族から呼ばれて沖縄に帰る途中撃沈された。これが簡単なものなんです。
これは富山県では非常に若い十四、五歳の青年、それで当時次男、三男はみんな少年航空隊であるとか戦車隊であるとかいうふうに出ていった。ところが長男やあるいはその人たちは後継者として家に残っておった。それでこの人たちもやはり自分たちも国のために働かなければならぬということでほとんど召集と同じような形で最後の二十年に出ていっておるわけです。