2020-11-17 第203回国会 参議院 内閣委員会 第2号
ですから、少女時代にそのことを教えられまして、ああ、安定的な皇位継承というのは本当に先人の様々な努力のたまものだったんだとその重さを認識しましたが、そうでなければ、学校教育で余り教えないし、マスコミも余り伝えていないということが現状で、国民の理解というのがまだ進んでいないのではないかというふうに思います。 五十九代宇多天皇はいかがでしたか。皇籍離脱された後、ちょっと説明してください。
ですから、少女時代にそのことを教えられまして、ああ、安定的な皇位継承というのは本当に先人の様々な努力のたまものだったんだとその重さを認識しましたが、そうでなければ、学校教育で余り教えないし、マスコミも余り伝えていないということが現状で、国民の理解というのがまだ進んでいないのではないかというふうに思います。 五十九代宇多天皇はいかがでしたか。皇籍離脱された後、ちょっと説明してください。
ただ、KARAだとか少女時代なんていうのは、国民、我々はほとんどが知っていると。これは明らかにやはり負けているという。ただ、私は、日本、まあ韓国の方には失礼ですけど、やはりこの風景や食の充実や、やはり各四十七都道府県のそれぞれ持った、バリエーションを持った魅力は、韓国の方も日本にやはりかなわないと言う方も多いです。
それは、元島民の方々等も御一緒に、土肥先生とともに、昨年、現地へ参らせていただいたわけでございますけれども、少女時代には択捉にある郵便局の窓口に、私はここに座っていたんだという方が、もう七十幾つでございます。そういった時の流れというのは、本当に元島民の方々にとっては、短いような、それとも圧倒的に長いような思いだと思います。
早い時代にどういう職業についたらいいか、そんなことを学ぶことが職業意識を向上させて、何になりたいかな、大きくなったらこういうことをやりたいかなと、そういうふうに子供たちが思うことが少年少女時代の生活を充実させることにもつながるのではないかと思うんです。そして、やはり少女時代、少年時代の人間生活をより豊かにするのではないかと考えるのであります。
冒頭、委員がお話しになりましたように、まことに異常な事件でございまして、あたら少女時代をこうしたまれに見る、想像のできないような事件の中で拘束されており、恐らく心身ともに私は耗弱されておられるのではないかと思っております。
少年少女時代は、純粋で最も感性豊かなときです。それに、長寿は長い間の人類の夢でした。青少年や高齢者が強い疎外感を抱くようでは、真に自由で民主的な社会とは言えません。 これに関連してお伺いしておきたいのは、高齢者雇用の問題です。高齢者といっても、今日、元気なお年寄りがふえています。ところが、六十歳定年制のもとでは、働きたくてもなかなか仕事がないのが実情です。
それから、幼児は幼児なり、幼児の時期なりのスポーツ、それから、少年少女時代にはそれなりのスポーツ、また青年時代にはそれなりのスポーツ、壮年時代はそれにふさわしいスポーツ、そして、高齢者になってこういうスポーツを私はやっているんですと、これが答えだったのであります。
私自身を考えますと、とにかく本の虫というふうな感じでございまして、本を読んでいれば幸せというような少女時代を過ごしてきたわけでございますが、ところがどうも今日はかなり事情が違うようにも思います。一言で言えば本離れ、読書離れ。
○公述人(松井義子君) 私は、言葉にこだわる一人として、かつての十五年戦争中少女時代を過ごした者として、またかつての侵略戦争の後始末の一端にかかわる運動につながっている者として、PKO法案という実質自衛隊海外派兵法案並びに関連二法案に強く反対しています。 言葉には命があり実力があります。私の少女時代の皇民化教育一辺倒の中でまさにこのことが実証されました。
看護婦というのは、特に私の少女時代などというものはあこがれでした。ナイチンゲールとかなんとかという物語などを読んで、看護婦というのはいかに人のためになるのか、そういう意味では非常に生きがいのある仕事だというふうに若い少女たちは思うわけですね。
もっとはっきり言えば、そういう大きい目標が、えてして目前の受験というか進学に一番の目標が絞られてしまって、それぞれの伸び行く幼年期から少年少女時代に目前の受験勉強に追われてゆとりを失っておるということが一番の不幸さではないか。それを取り除くためには、おっしゃるように今までのような画一的な教育から多様化、個性化の教育に向けていかなければならない。
亡くなった老女は、過去を語りたがらなかったのでございますが、少女時代に身売りをされまして、国内から満州へと流れ流れて、ついにこの地域にたどり着いてひとり暮らしの道を歩き、孤独死をいたしたものと見られております。この老女は生活保護を受けておりました。心臓が悪いため入退院を繰り返しておりました。福祉事務所で何かと頻繁に連絡をとっておりました。
質問は、あなたが少女時代アメリカで日本のことを教科書で学ばれたと思うんですが、同志社大学に来られて、自分の学んだことと自分の目で見た日本との違いといいますか、そういうことをちょっとお聞かせいただければありがたいと思います。
こうした苦しい少女時代、青春時代から今日まで、原爆手帳の交付以外、国家的な援助は全くありませんでした。 先ほど申し上げましたように、姉は結核で倒れたときに離婚しましたが、その後、姉も私も病気がちで、特に姉は糖尿とか胆石、神経痛などがずっと繰り返して起こり、体が弱いためいつ原爆症が出てくるかもわからない不安がありました。ましてや結婚などする気にもなれません。現在とも、いま二人のままであります。
戸叶さんは、明治四十一年、長野県松本市にお生まれになり、教育家として令名高い御両親の薫陶を受けて少女時代を過ごされました。 昭和四年、同志社女子専門学校英文科を卒業後、朝日新聞の記者であった現参議院議員戸叶武先生と結婚し、家庭を守るかたわら、英語塾や女学校で教鞭をとっておられましたが、昭和十五年、夫君とともに大陸新報社の記者として上海に渡られました。
こういう人たちはみんな親がバンコクへ行って仕事をしておる、ある一定の期間だけたまたまタイという国で少年時代、少女時代を過ごしておる、いつか日本に帰る。そういう意味での日本人、日本語教育だと思います。ですから、こういう人々に対する外国人学校制度の適用というものはどこの国でも起こる問題でございまして、比較的問題ない。
私は少女時代に日清戰争の切り合い、殺し合いの幻燈を見てから、非戰論者でありましたことと、また半世紀以前の話ではありますが、夫は学生時代から英米の哲学、神学博士方に日本語を教えておりまして、多数の英米人を知つておりましたことと、私も数名の先生に教えられましたことがありますので、英米人の親切や愛は、私どものように親子の間に至るまで、折算的の愛でも、親切でもない点を知つて、その人となりを二人は非常に尊敬しておりましたので